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  • 腎移植関連書籍のご紹介 『オッサンと過ごした日々 -腎臓移植と三春の滝桜-』 安藤洋子著 文藝春秋企画出版部


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腎移植関連の本のご紹介です。

献腎移植を受けられた旦那様への愛情あふれる内容となっています。ご興味のある方は、最寄りの図書館で題名と出版社を告げて頂き取り寄せて頂くか、下記店舗までお問合せください。



『オッサンと過ごした日々 -腎臓移植と三春の滝桜-』 安藤洋子著 文藝春秋企画出版部 取扱店舗

・三重県桑名市中央アピタ1階 新光堂アピタ店 電話(0594)23ー1898 FAX(0594)23-2276
・三重県桑名市市田町22番地新光堂本店 電話(0594)21-2521 FAX(0594)21-8275
・三重県四日市市諏訪栄町5-5 新光堂四日市店 電話(059)351-1600(代)FAX(059)351-2605
・名古屋市中区愛知県庁旧庁舎5階 あんどうめがね(052)954-6855 午後4時まで 夜間(052)784-4611 FAXは同じ



透析に夏休みをありがとう 安藤洋子

 オッサンはあの世とやらで、ドナーとなって頂いた方に飛び切りの笑顔で感謝の言葉を伝えたことだろう。
 「透析をしなくてよかった最期の四年間を、ありがとうございました」
 オッサンが癌で亡くなって今年の六月でもう二年が経ってしまった。
 念願の七十歳(古希)まで生きることができた。本望だっただろう。
 子供の頃からあまり体は丈夫なほうではなかった。先天的に血圧が高かったようだ。その半面口はよく動いた。幸いなことに(?)子供の頃からだと「こんなもんか自分は体力がないのかなぁ」くらいにしか思っていないようだった。
 昭和三十五年に工業高校を卒業して就職試験を受けた。血圧が高くて引っかかった。が当時は肺に影がなければ、何かの間違いで血圧が高かかったのだろうで見逃してもらえた。めでたく工作機械メーカーに入社できた。会社の研究室に入れてもらった。探究心旺盛なオッサンにとっては楽しい所だった。そこに五年勤めた。
 当時は高度成長期、伯父さんが機械の会社を興した。格好付けて言えばそこへ引き抜かれた。ここでは現場での工場仕事も、機械の売り込みの仕事もあった。その間に破れ鍋オッサンは綴蓋の妻が要るので、私と結婚もした。
 元来、体は強くない。家に帰ればあのお喋りが口も聞けないほどだった。暫くして起き上がり夕食を食べた。
 結婚して五年ほど経っていた。朝になれば楽しそうに会社へいく。でも体は悲鳴を上げているようだ。幸か不幸か子供はいなかった。
 オッサンは愚痴を言わない。無理をしてではなく、本当に何をしても楽しいらしい。私は別の所で働いていた。
 私の実家は昔「時計メガネ屋」をやっていた。
 見ていて体が持たないのでないかと思われた。私は転職を薦めた。
 オッサンは強い近視だった。猛烈に目のことを勉強しはじめた。知り合いの眼科で夜は受付を手伝いながら、後で先生からレクチャーを受けた。
 問屋さんにもレンズ削りなどを習いに行った。もともと機械屋であるからこれはクリヤーできた。伯父さんの会社を円満退社した。
 日本楽天家協会があったら間違いなく会長になっただろうオッサンはメガネ屋に転身した。ここでも天職だと喜んでいた。
 子供も二人生まれた。仕事は順調だった。扱うものが小さい分、体への負担は少なかった。でも血圧は高かった。
 五十歳になったオッサンは靴下のゴムの当る部分が痒いと言い出した。
 なんとゴムの部分を切ってしまって履いている。靴下はずり落ちる。
 困った。背中も痒くなった。「すまんのう、背中を掻いてくれんかのう」と唯一の妻である私に頼んできた。薄情者の妻は面倒くさがりである。
 背中を掻く孫の手を買ってきて「コレで好きな時に掻きな」と言って渡した。クレアチニンの数値も高くなった。食事療法が始まった。低蛋白、高脂肪の食事になった。カリウム制限もかかった。
 天ぷらは衣をオッサンが食べ、私は中のエビなど高タンパクの物を食べた。それでも、毎日の食事は恐ろしい。演歌で「春に二重に巻いた帯、秋は三重に巻いても尚、余る」みたいな歌詞があった。が、私は違った。その反対で春に二重に巻いた帯、秋は一重も巻けぬ状態になった。私は脂肪で腹がブヨブヨになった。
 塩分量五グラムの食生活だ。低たんぱく米を買ってみた。私は一口食べてみた。なんと普通のコメの美味しいこと。流石のオッサンも食べ辛かったようだ。
 のう胞腎で腎臓が目詰まりを起こしている。のう胞腎は遺伝体質からなる。
 「昭和三十年に五十歳で亡くなった親父もこれが原因だったのだろう」
 当時は解らなかった。それに解っていても透析という治療方法は庶民には受けられなかったであろうと、オッサンは今の医療制度に感謝した。
 オッサンは透析導入のシャントを作る手術ために入院をした。その入院中、私と子供二人とオッサンの母も沖縄へ旅行に行った。
 「死ぬ病気でもあるまいし、クヨクヨしても仕方がない」私の持論だ。
 「薄情者達め! 恨んでやる。妻だけかと思ったらオッカサンおまえもか!」
 ニコニコ笑って見送ってくれた。週三日の透析導入となった。
 これで食事制限も少し楽になった。水分制限がかかった。一計を案じたオッサンはできるだけ高価なお茶を取り寄せ、飲み始めた。ガサツな妻は味がわからない。語り部とアダナがあったオッサンは一煎目で満足そうに語り、私に二煎目でも美味しいから飲めと勧めてくれた。美味しかったような気がした。値段が高かったから。
 透析十五年目で移植の電話が架かってきた。順番は二番目だった。不謹慎だが回ってきて欲しいと願った。チャンスの神様はハゲチャビンだが何とか掴んだ。
 オッサンは平成十九年五月に腎移植をうけることになった。
 その時の喜びの顔は忘れられない。献腎して頂いた方の命日と思われる日には、何か変だが家の仏壇に毎月手を合わせている。
 透析をしなくて良くなった四年間は、神様にもらった年月だった。
 楽しい人生だった。
 私もあんたのこと書いた「オッサンと過ごした日々」と題した本を自費出版したよ。あの天下の文藝春秋からだよ、一生一度の無駄遣いだった。
 みんな読みやすいとお世辞を言ってくれたよ。でも中には「オッサンとは何事か」と怒ってきた人もいたけど、別にオバサンと書いたわけでもないのにね。

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