九州大学病院レシピエントインタビュー第8回目は、約4年半前にご主人がドナーとなり、生体腎移植手術を受けられた森慶子さんです。IgA腎症と診断されてから、腹膜透析導入となるまでの経緯や、北田先生との出会いによって移植手術に進んでいかれた時のお話などを、ドナーのご主人も交えてお聞きすることができました。

森さんが移植を受けるまでの経緯

  • 1992年(37歳) IgA腎症と診断される 保存療法開始
  • 1998年(43歳) 扁桃腺摘出手術
  • 2000年8月(45歳) ステロイドパルス療法を受ける(3週間入院)
  • 2006年1月(51歳) 腹膜透析導入
  • 2010年1月(55歳) 生体腎移植手術

IgA腎症の発症

病状が出始める前はどのような生活でしたか。

森さん
小さいころから健康優良児で、中学・高校は皆勤賞でした。運動も好きで、部活は、中学・高校はテニス部、大学はバトミントン部に所属していました。26歳の時に結婚して3人の子どもを出産し、その後も特に変わりなく、健康な生活を送っていました。37歳の時、健康診断で初めて蛋白尿を指摘されたため、すぐに近くの個人病院を受診したところ、総合病院を紹介され、腎生検でIgA腎症と診断されました。

蛋白尿を指摘された時には、クレアチニン値はまだ低かったのですか。

森さん
0.7mg/dlぐらいで正常値でした。その後、さまざまな治療をしましたが、徐々にクレアチニン値が上昇し、IgA腎症と診断されてから14年後の51歳の時に、腹膜透析導入となりました。透析導入まではむくみが時々あるくらいで、元気に生活していました。

透析導入するまでの約14年間は保存療法をされていたのですね。

森さん
そうですね。定期的に診察には行っていましたが、特に症状が出ていませんでしたので、先生からも、「状態の変化はありません」と言われ続けていました。でも、「効果があると言われる治療法はやってみましょう」と先生から言われ、後悔だけはしたくありませんでしたので、扁桃腺摘出術や、ステロイドパルス療法を受けましたが、クレアチニンの上昇を止めることはできませんでした。ステロイドパルス療法を受けた時には3週間くらい入院が必要でしたので、学校が夏休みの8月に、主人が頑張って子どもの面倒を見てくれました。


ご主人
妻の入院中は、仕事は忙しかったのですが、会社にお願いして定時で帰宅させてもらい、息子たちの食事の準備などをしましたね。それまで料理を全くやったことがありませんでしたが、インスタント食品やお弁当も利用して、3週間、同じおかずにならないように、献立表を作りました。献立表のメニューだけを見ると、いかにもごちそうが並んでいる感じに見えましたね(笑)。

森さん

森さん
ステロイドパルス療法のおかげで、1年くらいはクレアチニン値も若干下がったのですが、それは一時的なものでした。最初の診断で先生から、「IgA腎症でも透析導入にならない人もいますが、20%くらいの人は進行して透析導入となります。森さんは、その進行する中に入っていますので、何の治療もしなければ、現在3歳のお子さんが中学校を卒業するぐらいのころには、透析導入になるのではと思います」と言われました。逆算して、「あと13年だ」と思ったのですが、実際は14年でした。ステロイドパルス療法で、透析までの期間が1年は延びたのかもしれません。

当時、お仕事はしていらっしゃったのですか。

森さん
非常勤の仕事を42歳の時に始めました。37歳でIgA腎症と診断されてから数年は、「病気だから仕事もできないわ…」と落ち込んでいたのですが、3〜4年たったころには精神的にも数値的にも徐々に落ち着いてきましたので、「クレアチニンが上がるのを待っていても仕方がない」と思い、予備校の教務補助の仕事を始めました。ただ、検診には休みを取ってきちんと通っていました。薬もしっかりと飲んでいましたね。 仕事は朝早くからの勤務で15時には終了するのですが、それを週4日勤務から開始しました。予備校の教室で、休み時間に生徒の話を聞いたり、プリントを配ったり、テストの採点をしたりするのです。これが後の仕事にもつながっていくのですが、若者に元気と勇気と自信を与える仕事でとてもやりがいがありましたね。

北田先生との出会い

その後、51歳の時に腹膜透析導入となられたとのことですが、腹膜透析を選択されたのはなぜですか。

森さん
透析導入しなければならないという時に、当時診ていただいていた若い先生から、「森さんはまだお若いですし、腹膜透析という方法もありますよ」と勧められたのがきっかけです。


ご主人
当時は、妻も私も血液透析しか選択肢がないと思っていました。そのため、先生から血液透析の他にも腹膜透析という方法があるという説明を聞いた後は、インターネットでもいろいろ調べました。すると、腹膜透析の場合は、病院の受診は月1~2回でいいですし、家で夜間に透析をすることも可能だと分かり、それなら妻も仕事も続けられるだろうと、2人で相談して腹膜透析をすることに決めました。

その時は、先生から移植の話はなかったのですか。

森さん
その時はありませんでした。

その後、腹膜透析治療は順調でしたか。

森さん
全般的には順調だったと思います。透析液を持って、主人と北海道や沖縄などへ旅行もしました。ただ、「腹膜透析は、7〜8年くらいしか腹膜がもたない」と言われていましたので、移植のことは漠然とではありますが、常に頭にありました。


ご主人との旅行(移植前)

移植という治療法があるということはご存知だったのですか。

森さん
大学時代の知り合いが、30代で献腎移植を受けていましたので、漠然とは知っていました。ただ、当時はレシピエントとドナーの血液型が違うと移植はできないと思っていました。主人と私は血液型が違うので、夫婦間移植は考えていませんでしたが、「九州大学病院では、血液型が違っても移植手術をしている」とお聞きし、真剣に調べてみようと思い始めた時、腎友会主催の北田先生のセミナーがあり、主人と二人で聴講しました。

セミナーではどのようなお話を聞かれたのですか。

森さん
レシピエントとドナーの血液型が違っても移植ができるということや、透析患者の動脈硬化についてお聞きしたのを覚えています。「長期間透析をすると、血管はこのような状態になってしまうことがあるんですよ」と言って、透析の合併症で動脈硬化が進んでしまった血管の写真を見せていただいた記憶があります。


北田先生
通常、単純レントゲン撮影では血管はうつらないのですが、動脈硬化がすすむと血管が白くうつるようになるんです。その写真をお見せしました。

北田先生に初めてお会いした時の印象はいかがでしたか。

森さん
そのセミナーで初めてお会いした時は、先生があまりにお若く、最初は講演を手伝いにきた助手の医師だと思いました(笑)。でも、先生がお話を始めると、その説明が本当にわかりやすく、熱意と自信を持ってお話しされる姿は、とても大きく見え、迫力がありました。先生のお話に非常に感銘を受け、一気に気持ちが移植へと傾いていったのを覚えています。

ご主人は先生のお話を聞いてどのように感じられましたか。

ご主人
北田先生のお話をお聞きするまでは、移植の話を聞いても、「そういう道もあるんだな」という程度の認識でした。ところが、先生のセミナーを聴講し、移植がとても安全でリスクが少ない治療法だということが分かりました。移植後にドナーが死亡するとか、腎臓が1つになって透析が必要になるとか、そのような確率が非常に低いということが分かったのです。そして、「提供は早ければ早いほどいい」ということも知りました。「合併症が進行する前に移植をしたほうがいい」という話を聞き、それならばすぐに移植しようと思いました。

ドナーになることに不安はありませんでしたか。

ご主人
たまたま身近にドナーとなられた方がおられ、その方の存在にも背中を押されました。その方は私の直属の上司だったのですが、息子さんのドナーとなり、腎提供をされていたのです。何かの拍子でその話をお聞きしたのですが、上司は会社でもごく普通で、飲み会でもちゃんとお酒を飲んでいました。ですから、「腎臓が1つになってもお酒は飲めるんだなあ」と強い説得力がありましたね(笑)。

やはり身近に、元気なドナーの方がいるというのは、大きいですね。

北田先生
医師が、いくら「大丈夫だ」と言っても、実際に経験された方からのお話しや、その方が体現されていること以上の説得力はないですよね。