厳しい現実

1回目の移植後から、2回目の移植手術まではどのような状態でしたか。

浦上さん
1回目の移植から4年目の夏ごろから体調が悪くなり入院しました。
そして、移植5年目の1月の夜、病室のベッドで寝ていると、主治医から呼び出しがかかりました。大きな不安を抱いて主治医のところまで行きましたが、その不安は的中し、「これから週1回、3時間の血液透析を始めましょう」と言われました。今でもその時の状況をはっきりと覚えていて、思い出すと胸のあたりが苦しくなります。
父からの移植腎を摘出したのは、その年の6月です。移植腎を摘出するための手術は希望を持てる前向きなものではなく、またあの苦しかった血液透析に戻ってしまうというものでした。摘出後、病室に戻ってきた時の気持ちは、つらすぎたためか、あまり思い出すことができません。家族に、特に父には顔向けできませんでした。

移植腎は、なぜ取り出したのですか。

浦上さん
拒絶反応が出ているので、もう入れておけないということでした。


吉田先生
現在は、移植した腎臓が駄目になっても、一般的にはそのままにしておきます。それは、取り出さずに入れておくことによって、次の移植の際に拒絶反応を抑えることができるという研究結果があるからです。でも当時は、「移植して駄目になった腎臓は、悪影響しか及ぼさないので、取り出してしまう」という考え方でした。そのため、拒絶反応が起こり機能しなくなってしまった移植腎を、取り出す手術を行っていたのです。
拒絶反応を起こした腎臓というのは、血管縫合した周辺の癒着がきつく、摘出するのは非常に危険な手術です。ですから私も手術の中でも一番気を使うのは、移植腎を取り出す手術ですね。


浦上さん
その後また、週3回4時間の血液透析が始まりました。初めの1カ月ほどは、奈良県立医科大学附属病院で血液透析を受けていましたが、職場復帰を考えていましたので、別の施設で受けることになり、その施設の近くで一人暮らしをすることにしました。水分、塩分、カリウム摂取の制限など、いろいろな制約がある生活でした。血液透析をしている時は、体重確認のため、1日に何回も体重計に乗りました。この時の夢は、自動販売機の飲み物を端から端まで飲むことでしたね(笑)。
血液透析が始まり、気分が落ち込むと同時に、体力も落ちました。当時私が勤務していた養護学校は、肢体不自由の児童が通う学校でしたので、生徒の車椅子からの乗降は、教員が抱きあげて介助していました。私の透析導入前の体重は65kgだったのですが、導入後のドライウエイトは53kgでしたので、ドライウエイトを維持するために満足な食事量も取れず、職場復帰には体力的な面での心配が大きくのしかかりました。しかし、職場の仲間に恵まれ、月、水、金の週3日、4時間の血液透析を受けながらも、長期の休みを取ることもなく、なんとか仕事を続けることができました。

現在の透析治療であれば、体調面でももう少し良い状態を維持できるのではないでしょうか。

吉田先生
そうですね。当時と比べたら、現在の透析治療はだいぶ良いと思います。当時はまだ、貧血を改善するための造血ホルモン剤も使えませんでしたからね。


浦上さん
当時はちょうど、維持透析患者さんへの造血ホルモン剤の治験を行っていたころでしたので、私も参加しました。そのころの私のヘマトクリット値は13~14%(男性の基準値40.4~51.9%)しかなかったのですが、造血ホルモン剤を投与すると、22~23%くらいになったのです。13~14%ですと、子どもを1回抱き上げると、それだけでもう、「はあ、はあ」と息切れをしていましたが、投与後は全然違いましたね。

その後は、血液透析を受けながらも、好きだったスポーツなどはできていたのでしょうか。

浦上さん
はい。血液透析を開始してから1~2年たったころ、仲間とゴルフに出かけるようになりました。ゴルフの後から透析に行っていたので、全身痙攣が起こって、つらい状態になることも多くありましたね。

疲れた状態で血液透析を受けるとそのような状態になることもあるのですか。

吉田先生
透析自体が、すごくカロリーを使いますからね。一般的には、1回の透析で、「100m走の全力疾走を3回行ったくらいのカロリー消費」と言われています。


浦上さん
あと、血液透析をしていると汗が出ず、体に熱がこもってしまうので、午前中のラウンドが終わった後は、風呂場で水のシャワーを浴びて体をクールダウンさせてから、午後のラウンドをしていました。


浦上さんと吉田先生


献腎移植希望の登録へ

献腎移植希望の登録はいつごろされたのですか。

浦上さん
「 この状態から抜け出すには、移植しかない」と思っていましたので、移植希望の登録は、1回目の移植腎を摘出した時からお願いしていました。失敗しようがどうなろうが、移植できなかったら、普通の生活には戻れないと考えていました。

当時の献腎移植希望の登録は、現在とはどのような点が違ったのでしょうか。

吉田先生
当時は、ワンキープ、ワンシェアの時代でした。摘出した2つの腎臓のうち、1つは摘出した医師の施設や同じ県内の患者さんに、もう1つは他県の患者さんに移植するというものです。登録自体も各県で管理していました。

献腎移植の希望登録後、特に意識して気を付けていたことはありますか。

浦上さん
体重管理だけはしっかりと行っていました。

浦上さんの待機期間は、現在の平均約16年(成人)と比べると非常に短かったようですが、当時は登録人数も少なかったのでしょうか。

吉田先生
少なかったですね。加えて、浦上さんの血液型はAB型なので、どの血液型の方からでも移植ができたというのもあります。また、当時は、現在よりも腎移植手術の際のHLAの適合度が重視されていましたので、適合度も高かったのだと思います。


浦上さん
移植手術に際し、HLAに関しては、「5つ合っています」と言われました。私がご連絡をいただいた時は、レシピエント候補の方が4人病院に来られていたのですが、そのうちの2人は、「すぐに1~2カ月仕事を休むことができない」とおっしゃっていました。私は以前から、「もし移植をすることになったら、2カ月ぐらい休むことになります」と勤務していた学校に話をしていましたので、休むことによって職場には迷惑をかけたとは思いますが、無事、移植手術を受けることができました。

手術に向かう時は、期待と不安のどちらの方が大きかったでしょうか。

浦上さん
それまでに移植手術も透析も、腎摘出手術も経験していましたので、不安は全くありませんでした。