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レシピエントインタビュー

山本康平さん
移植種類: 生体腎移植
お名前: 山本康平さん
ドナー: 奥様
移植後: 約半年(取材時)
病院: 愛知医科大学病院
ドクター: 小林孝彰先生、渡邉レシピエント移植コーディネーター
取材日: 2016/11/16

愛知医科大学病院レシピエントインタビュー

37年目の転機

愛知医科大学病院 レシピエントインタビュー第2回目は約半年前に奥様がドナーとなり、生体腎移植を受けた山本康平さんです。山本さんは30歳の時にネフローゼ症候群と診断され、35歳で血液透析導入となりました。その後、約37年間の透析治療を経て、72歳のときに生体腎移植手術を受けられました。透析治療を受けながら教員の仕事を続けていたころのお話や、生体腎移植を受けることになった経緯、移植後の生活などについて、ドナーとなられた奥様も交え、さまざまなお話をお聞きすることができました。

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教員を続ける決意

まず、透析導入となるまでは、どのような病状だったのでしょうか。

康平さん(レシピエント)
28歳ごろ、むくみが出るようになりました。体力が落ち、少し立っているだけでもつらく、いつも座る場所を探していました。その後、食欲が無くなってきたので、胃の検査のために病院を受診したところ、ネフローゼ症候群と診断されました。そして35歳の時(1972年)に血液透析導入となりました。

人工透析が保険適用となったのは1967年ですから、まだ日本で透析が始まって間もないころに透析導入になったということですね。

康平さん
そうですね。当時は現在のように小さくて高性能なダイアライザ(透析器)ではありませんでしたし、コンピュータがない時代だったので、透析が終わるまでどれだけ除水したかが分からない状況でした。また、エリスロポエチン製剤も無かったので、貧血がひどく、ヘマトクリット値が17~19%くらいで(成人男性の基準値:40.7~50.1%)、少し歩くだけで息切れがしました。貧血を改善するため、3回ほど輸血もしました。
※ヘマトクリット値:血液中に占める血球の体積の割合を示す数値。貧血検査などに利用される。

エリスロポエチン製剤が投与できるようになってからは、だいぶ変わりましたか。

康平さん
エリスロポエチン製剤が出たことによって長生きできた、と思うくらい、日々の生活が劇的に変化しました。貧血が改善されて歩けるようになり、活動範囲がとても広がりました。生活に対する意欲も出てきて、家を新築しましたし、妻と一緒に旅行することも多くなりました。

透析中はお仕事もされていたのですか。

康平さん

康平さん
教員の仕事をしていましたが、透析導入となったときに、一旦は辞めようと考えたこともありました。
私が透析導入となった時、「透析導入となっても、そんなに心配することはないです。日本では導入から“5年も”生きている人もいますよ。」と言われました。当時の透析医療の水準はまだその程度でした。それ以来、常にあと5年という意識が頭にありました。導入したての頃は、自分は5年も生きられないだろうから、まあ2年生きられればいいかな、くらいに思っていました。
当時、息子がまだ3歳だったので、2年頑張って生きれば、息子が5歳になり、かろうじて父親のことを覚えていてくれるのではないかと考え、息子と過ごす時間を増やすために仕事を辞めようとも思いました。
ところが、透析の先生に仕事を辞める話をしたところ、「教員を辞めるなら、透析も受けなくていい」と言われてしまったのです。先生からは、「透析はさまざまな医療制度によって自己負担は少ないが、とても高い医療です。教師という社会貢献ができる立場にありながら、それを自ら放棄するとはどういうことですか。」と一喝され、それであればと奮起して、普通の人以上に頑張って仕事をしようと決心しました。それ以来、あと1年の命かもしれないけれど、高い医療を受けさせてもらえるなら、と透析も仕事も続けているうちに、5年が過ぎ、さらに次の5年が過ぎという感じで、結局、透析を受けながら教員の仕事を定年まで続けることができました。

透析を受けながら、30年以上、定年までお仕事をされたというのは、現在透析を受けている人にとっても希望を与えるお話ですね。山本さんは、透析を受けていた頃は患者会の会長もされていたそうですね。

康平さん
透析導入から25~26年目ごろから患者会の役員となり、27年目くらいから10年間、会長を務めました。


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