私は10数年前まで岩手の盛岡市に居住し、八戸、久慈、宮古、釜石、山田、大槌、大船渡、陸前高田、気仙沼、仙台、南相馬(旧原町市)など様々な地に出張しておりました。原町には毎週火曜日出張していた時期があり、1995年1月17日も、盛岡から新幹線で仙台に、そして常磐線に乗り換えて原町まで移動しておりました。途中、新幹線の車内電光掲示に東海道新幹線が運行停止していることを知らせていましたが、その理由はわかりませんでした。原町の病院に到着し、テレビに映し出される神戸の街から、只ならぬ事態が生じたことを始めて知りました。

2011年3月11日、午後3時から秋田県臓器移植連絡協議会に出席するため、秋田市内にある施設に入った直後、壁に手をつかなければ倒れてしまうほどの大きな揺れを感じ、同時に館内は停電しました。協議会には行政の即座の対応を検討しなければならない町村長の方もおり、余震のなか会議は早々に終了しました。その後、自家用車で大学病院に戻るにも、停電のため信号機が作動しておらず、渋滞のなか車内のテレビをみると、津波が仙台の田畑や車を飲み込んでいくリアルタイムの上空からの画像が映し出されていました。その後の事は、報道にあるように皆様もご存知のことと思います。

大震災の後、腎移植患者さんを外来で診察していると、「最近眠れないので、睡眠薬が欲しい」と訴える女性患者さんがいらっしゃいました。

理由を聞くと涙しながら、秋田県に在住する弟さんが岸壁工事の指導に3月9日に福島県沿岸に入り、津波の後行方不明になったとのことでした。秋田県は東北で唯一、今回の震災では死亡者なしと報道されていました。また、別の男性患者さんは仕事で仙台多賀城(海に近い場所)に出張していて、車で逃げようにも渋滞で動けず、津波が来たことを察知し、すぐそばの建物の外壁にあるパイプによじ登り、胸まで水に浸かっていたそうです。前後に渋滞していた車は流されたそうですが、その場面は見ないようにしていたとのことです。その後、仙台から移動することが困難となり、余分な免疫抑制薬を持参していなかったため、災害翌日東北大学で3日間の薬剤処方を受けたとのことでした。

巨大地震後、私は大学に戻り3日間泊まり込み、自家発電機のない市内の透析施設の患者さんの透析の手配などを行っておりました。2年前、秋田県災害時透析ネットワークを構築しておりましたが、これが役立ったのは電気が普及しメールができるようになってからのことでした。私達のネットワークは、神戸淡路大震災と新潟地震の規模を想定したものであり、県境を越える大震災の時は行政との連絡網も整備しなければならないと思っていましたが、そのような巨大震災が身近に発生すると本気で思っていたわけではありません。

「想定外の災害」という言葉をよく耳にします。46億年前に地球が誕生し現在に至るまでを1年間で表現すると、1月1日に地球が誕生し、12月31日の午後11時37分に原生人類が誕生したことになります。もうすぐ、紅白歌合戦が終わる頃の時間です。そして産業革命が起こったのは午後11時59分58秒です。地球の活動史においては、今回の巨大地震は無に等しいほどのものかもしれません。私達の想定は、地球の歴史上瞬きほどの経験から生まれたものに過ぎないのでしょう。

平常時から免疫抑制薬は十分な量を保持し、非常時に備えるよう患者さんにはお話してきたつもりですが、それも、このような巨大震災を想定したわけではありませんでした。それでも、私達には自分自身と家族の身を守る責務があります。免疫抑制薬の十分な量の保持管理のみならず、急変時の即座の対応こそが、身を守る最大の手段であることを痛感しています。

今回は患者さんへのアドバイスではなく、東北関東巨大震災に関連した私的な思いの一端を記載しました。