東海大学医学部付属病院 レシピエントインタビュー第1回目は、約2年前にご主人がドナーとなり、生体腎移植手術を受けられた大和田とき子さんです。
10年以上に渡り、血液透析や腹膜透析を受けていらっしゃったころのお話や、ご主人の突然の申し出により、移植手術に臨まれた際のお話、そして移植後、ご夫婦そろってよく歩き、健康で充実した毎日を過ごされている現在の様子などを、ご本人とドナーとなられたご主人からお聞きすることができました。

大和田さんが移植を受けるまでの経緯

  • 1994年(45歳) 職場の健診で蛋白尿を指摘される
  • 1999年(49歳) 慢性腎不全の診断
  • 1999年(50歳) 血液透析導入
  • 2001年(51歳) 腹膜透析に移行
  • 2010年(59歳) 血液透析に戻る
  • 2012年1月(61歳) 生体腎移植手術

透析導入へ

病状が出始める前までは、どのような生活をしていらっしゃいましたか。

大和田さん
子どものころから大きな病気もせず、就職後は看護師として毎日元気に働いていました。その後結婚し、第1子を出産しました。その後、第2子が病気であったため退職しましたが、私自身は病気知らずの生活でした。ただ、今から思い返せば、第2子の妊娠初期に尿から蛋白が出たことがありました。
その後、第2子が早世(13歳)してしまったため、亡き我が子のためにと今まで以上に夢中で仕事をしていたところ、体を酷使してしまったようで、45歳の時に職場の検診で蛋白尿を指摘され、初めて腎疾患を発症しました。ただ、高血圧以外の症状が無かったので、その後も4~5年は普通に仕事を続けていました。

その後は保存期治療を続けていらっしゃったのですか。

大和田さん
食事療法を中心に行っていましたが、そこまで徹底した食事管理はしておらず、少し気を付ける程度でした。その間に徐々にクレアチニンは上昇していきました。そしてついに、50歳になった時に血液透析導入となりました。

中村先生、45歳まで何もなかった人が、5年後に透析導入になるというようなことはよくあるのでしょうか。

中村先生
腎臓病の症状は悪くなって初めて出るので、慢性糸球体腎炎の患者さんでは、大和田さんのように仕事を一生懸命している方ほど自覚症状が無いまま進行し、病院に来られたタイミングではだいぶ悪くなっているというケースが比較的多いです。大和田さんの場合は、腎臓病を指摘されてから5年後に透析導入されていますが、早い人だと3カ月後や半年後に透析になる方もいらっしゃいます。

血液透析導入後、腹膜透析へ移行、そして再度血液透析という経過をたどられていますが、最初に血液透析を選ばれたのは、どのような理由だったのでしょうか。

大和田さん
当時は、腹膜透析を良く知らなかったので、透析は血液透析しかないと思い込んでいました。血液透析のシャント手術のために入院した際、腹膜透析の液を捨てにいく人を間近に見て、「腹膜透析ってこういうものなのだ」と初めて知りました。でも、既にシャントを作ってしまったこともあり、その時は腹膜透析をしようという気持ちにはなりませんでした。
その後、2年間血液透析をしている間に、腹膜透析について新聞記事を読んだり、医師に相談したりする中で、腹膜透析は透析クリニックに通う必要がないですし、食事もわりと自由にとれるということでしたので、「腹膜透析っていいかも」と思うようになりました。そして、血液透析を2年行った後に腹膜透析に移行しました。


中村先生
移植については、最初の血液透析導入時だけでなく、腹膜透析に移行した当時も検討されなかったのでしょうか。


大和田さん
当時、移植は全く検討していませんでした。医師からも移植の話は出ませんでした。他の患者さんの多くは、献腎移植のための登録はしていたようなのですが、私はしませんでした。「臓器をもらうことは無理だ」と勝手に思い込んでいました。

そのころ、ご主人は移植についてはどの程度の知識をお持ちでしたか。

ご主人(ドナー)
妻が腎不全になった14~5年前は、「移植はかなりの年数を待たないと受けられない」という程度の知識しかありませんでした。そもそも、透析がどういうものかも良く理解していませんでした。

消え去りたかった日々

移植に関しての情報や知識は、いつ、どのようにして知ったのでしょうか。

大和田さん
腎生検を受けた後や血液透析導入時にも「献腎移植登録」の知識は持っていました。当時の主治医からも、「大学病院で献腎移植の登録ができます」という話は聞いていましたが、その気持ちにならずに日々の透析生活に追われていました。結局、最初の透析を始めてから12年間登録せずに過ごしていました。「自分はこのままの透析人生で終わるのだろう」という諦めがありました。

そこまで人生を諦めかけていた大和田さんが、移植手術を受けようと思ったのはなぜでしょうか。

大和田さん

大和田さん
血液透析を2年受けてから変更した腹膜透析の8年間は、除水不足でむくみが出たりしてそれなりの苦労はありましたが、腹膜炎などの大きなトラブルもなく、旅行に出かけたり、社会活動をしたりして、それなりに充実していました。
ところが、8年間の腹膜透析を経て、腹膜の限界がきたため、再び血液透析に戻ってからは、シャントトラブルや全身倦怠などでつらい日々が多くなりました。特にシャントトラブルは大変で、左腕だけでは足りず、右腕にまで作り、シャントの手術は5回に及んでいました。


ご主人
血液透析の後は、私が迎えに行くことも多かったのですが、いつも本当にぐったりしていました。


大和田さん
もちろん、血液透析の後でも元気な人は元気で、透析の後に遊びに行くような人もいたのですが、私はとにかく疲れてしまって駄目でした。
そんなつらい日が続くと、ネガティブな気持ちが日に日に強まり、私は透析が嫌で嫌で仕方がなかったので、「もうこのまま自然と消え去りたい」との思いが強くなっていきました。 自宅では夫の前で、「透析しないでいたら、何日で死ねるかな」というようなことをよく言っていました。


ご主人
私も家ではかなり気を使っていて、妻とはなんともいえない微妙な距離感を持って接していました。当時は50代で仕事もバリバリやっていましたので、夜遅く帰ると、つらそうな妻にどのように接したらいいのか悩みました。ただ、さすがに精神的にかなり落ち込んでいた時に、「消え去りたい」というような話を目の前でされた時には、一度だけですが、かなり怒りました。


大和田さん
何しろ体がだるくて、透析の翌日も出かけられず、家に閉じこもっている状態でした。


ご主人
当時の妻はそのような状態でしたので、私の妹夫婦が箱根に行った帰りに、お土産を渡しに家に来たいと言った時にも、妻はよほど気持ちが乗らなかったのか、「会いたくないから来ないでほしい」と家に来ることを拒んだこともありました。


大和田さん
当時は、透析をするためだけに生きているような感じでした。透析仲間で、私よりもっと大変な人がいたのですが、彼女とは、「消え去りたい」という会話をしょっちゅうしていました。

生きるために、生活の合間に透析をするのではなく、透析のために生きているようになっていたのですね。