新小倉病院 脳神経外科部長 吉開先生に、臓器提供側である脳外科医から見た移植医療、臓器提供の現場でのお話をいただくシリーズ。第4回目、最終回の今回は「国民の誤解を如何に解くか そして将来の展望は」に関してお話を頂きました。吉開先生は、2013年5月に文芸社より発売された 『移植医療 -臓器提供の真実-』 の著者でもいらっしゃいます。

脳外科医から見た臓器提供 第4回「国民の誤解を如何に解くか そして将来の展望は」

初めに

世の中にはさまざまな病気と治療法がありますが、臓器提供ほど誤解を受け、悪評される医学分野は他にありません。臓器提供のあり方は、欧米やお隣の韓国では確立しつつあるのに、なぜ日本では未だに世界最低レベルなのかを以下に検討します。

由来不明の誤解の数々

私は、数多くの講演で、臓器提供側の諸事情や問題点を解説し啓発して来ました。すると、皆様がその内容に驚かれ、そして「自分が考えていた事情とは全く違う。自分はとんでもない誤解をしていた。それらはなぜ、どこから来たのか。」と言われます。
即ち、臓器提供では、提供者の体はどこかへ連れ去られ、内臓をえぐり取られ、バラバラになるか、ぐちゃぐちゃになる。臓器は冷蔵庫にポンポン放り込まれる。切開部位はガムテープでくっつけてある。臓器摘出後、ご遺体は遺族に戻らずそのまま火葬される。目玉はくりぬかれ、跡はホラ穴になる。ご本人が提供同意のカードを所持していれば家族は拒否できない。コーディネーターはご家族に臓器を提供するように誘導し、同意書の署名を急かす。 日本でも数億円の移植医療費用を募金活動で集める。臓器提供者のご家族は、移植を受けた方から謝礼金をもらう。移植コーディネーターは、全国の病院に脳死患者を探し回る。救急医は、臓器を欲しいために治療の手を抜く。このような「由来不明で、心の奥底に刻み込まれた全くの誤解」が、正される機会が無いまま世間に蔓延しています。

移植医療勉強会は全国で頻繁に開催されていますが、参加者はさほど多くないことがしばしばです。透析中の方、移植を受けた方、移植の希望者の参加が多く、純粋の一般の方は少ない傾向にあります。その理由として「講演会に出席すれば、臓器提供の洗脳を受け、ドナーカードに署名させられる」と誤解されている面もあるでしょう。

法律の不備 被虐待児問題

せっかく改正された臓器移植法ですが、幾つかの大きな問題を孕んでいます。その代表が、「臓器を提供する小児が被虐待児か」です。厚労省の調査では、小児虐待の92~93%が親によるとの結果があり、よって重症外傷を負った小児を見たら親による虐待を疑えとの世の流れになっています。しかし、真の問題はこの後です。

法制定時に、「子どもの死に際に体を切り開いて臓器を取り出すなんて、残酷で可哀想だ。そして子どもを虐待した親は、臓器提供をすることで周囲の疑いの目をごまかし、虐待の証拠を隠蔽するのではないか。ならば、子どもの臓器提供に賛成するような残酷な親は、子どもを虐待した、あるいはしたことがあるかもしれない。臓器提供で、子どもの人権が侵されてしまう。」と提議されました。
そして検討の結果、全ての種類の虐待行為(身体的暴力、無視放置、精神的虐待、性的虐待など)に関し、その子が生まれてから現在までの間、虐待を受けたことが一度でもあるか(被虐待歴)を、提供病院が院内で調査委員会を立ち上げ、警察や児童相談所を通じて調査せよ。引越しが多い場合も、過去に居住した全都 道府県市町村の児童相談所に連絡し確認せよ、とされました。つまり病院側に、存在するか否かも分からない犯罪の犯人探しをせよ、できないならば臓器提供をさせない、とされたのです。
更に、児童相談所が個人情報に抵触するとして情報を与えない場合も、臓器提供は不可。あるいは、転落転倒事故・窒息・溺水などの場合でも、第三者の目撃があれば提供可能だが、自宅内での「第三者の目撃が無い」受傷ならば親による虐待を否定できないために提供不可とされました。つまり、全ての親を全く信頼するなとされました。無意味で無駄で迂遠で人を蔑(ないがし)ろにする決め事です。子どもの人権を守るためと称し、ご両親の人格や人権を踏みにじり、多大な労力を提供病院に負わせるこの法律は、世間に 「臓器提供は虐待行為だ」の刷り込みを与え、更に病院や医師らに「関与へのやる気を失わせる」絶大な効果を与えています。

メディアの喧噪

日本の移植医療に関する疑惑と不信は、1968年札幌医科大学での和田心臓移植を端緒とし、現在まで延々と尾を引いています。 旧移植法時代の報道各社の疑義は、専ら「脳死は本当に人の死なのか」でした。 そして脳死下臓器提供がある度に、脳死判定の妥当性や検査が基準通りになされたのかなど、移植問題はそのまま脳死問題に置き換えられ、提供側の医師らはその喧噪に辟易しました。臓器提供の苦労を背負い込んでも、少しも評価されず、世間に疑われ責められるばかり。その結果、一般医師ですら、「移植はいかがわしい、関わると我が身が危ないし損をする」の意識を持ってしまいました。
法改正に伴い、「脳死は人の死なのか」の議論は下火となり、代わって小児からの脳死下臓器提供問題がやり玉に挙げられています。即ち、小児の脳死判定基準の妥当性、子ども自身が臓器提供に承諾していたか、事故症例であっても自殺などの事件性の可能性、脳死状態でも数ヶ月以上心拍が続く長期脳死、被虐待児問題、そして提供者のプライバシー保護を情報隠蔽と称する記事などが紙面を賑わしました。
上記の多くの誤解、法律の不備、メディアの喧噪については、 拙書「移植医療 臓器提供の真実 -臓器提供では、強いられ急かされバラバラにされるのか-」の第九章 臓器移植法改正とメディア問題、第十章 小児からの脳死下臓器提供とメディア問題、第十一章 長期脳死と新聞記事の検証、第十二章 小児虐待と臓器提供問題、第十四章 現役医師等の考えと啓発、第十六章 一般向け講演と学生対象の講義で、詳しく解説しました。そこで本稿では、以下に、しばしば議論される諸問題のポイントを解説し、本シリーズのまとめとしたいと思います。

まとめ

1.提供の諾否は完全な自由意思

世間やメディアが臓器提供にいだく根本的な疑いは、「医療側がご家族を臓器提供へ唆(そそのか)してはいないか」です。世の中には、医療行為全般への不信を基礎とした移植医療反対派の方々もいます。また、売り上げ高や視聴率至上主義に則り、不正確でも敢えて人目を惹く記事を報じるメディアもあります。しかし、私はそれらを全て否定する訳ではありません。
臓器を提供したいと思う方々が、提供反対の方々に「臓器を提供せよ」と無理強いできないのと同様に、臓器提供反対の方々が、提供したいと思う方々に「臓器を提供するな」と無理強いすることもできません。臓器を提供するもしないも、その理由が何であれ完全に個人の自由です。更に、ご家族が一旦臓器提供に同意し署名されても、その後に気が変わればいつでも中止できるのです。

2.人の心を勝手に忖度(そんたく)できない

以前私は、幼子(おさなご)の死の際に腎臓を提供した母親の講演を聴いたことがあります。その際、母親は、腎臓を提供した理由を以下のように説明していました。「この子が亡くなり、体が存在しなくなってしまうのはとても辛く耐えられない。しかし腎臓を提供するなら、その腎臓だけでもこの子は生きていることになる。どこかの他人様を助けようという思いよりも、この子にどこかで生きていて欲しいと願い、子どもの腎臓を提供した。」
私は、それまで臓器提供は人助けのために行うものだと思っていました。しかしこのお話を聴き、認識を新たにしました。即ち、人が何かを行う際に、他人がその気持ちを勝手に忖度したり否定できるものではないと。しばしば世間は、死に際に胸や腹を切り開いて臓器を取り出すなんて残酷で可哀想だ、の論調で臓器提供を批判します。しかし、その「残酷で可哀想だ」を超越するそれぞれの理由があって初めて、ご家族は臓器提供に同意されるのです。

3.主治医は臓器提供に関わらない

メディアの記事には、「担当医師から家族へ、臓器提供に関する十分な説明が無かった」との文章がしばしば見られます。私はこれをとても不思議に思います。担当医師が臓器提供の説明をするはずはありません。移植コーディネーターが説明するのです。医師は、本人やご家族に、臓器提供の意思が有るのか無いのかを確認し、もしご家族がコーディネーターの説明を聞きたいと希望すれば、その旨をコーディネーターに連絡するのみです。ましてや、医師が臓器を欲しがり、いただくはずはありません。それを、「担当医師の説明が殆ど無く、しかも臓器提供に追いやられた」との論旨を展開するのは、メディアの勉強不足か、あるいは国民に医療不信を増幅させようとの意図かもしれません。

4.移植コーディネーターが臓器提供を勧めるはずがない

最近の記事にも、移植コーディネーターがご家族に臓器提供を勧め促すのでは、との疑いの文章があります。2013年2月22日の某新聞社のWeb記事には、「臓器提供の決断を迫られる家族の心理的負担」とあり、2012年6月15日の某新聞社の記事には「悲嘆に暮れる親族が、コーディネーターに誘導されることもあり得る」とあります。 性悪説に則(のっと)り、疑って掛かるも全くの自由ではありますが、この「迫る、誘導される」とは、何とも刺激的な言葉です。
1997年10月16日に臓器移植法が施行されました。そして1998年から2013年6月末までの15年6ヶ月間に、脳死下提供225名、心停止下提供1234名、計1459名の方々が臓器を提供されました。即ち同数のご家族が提供を承諾されたのです。この承諾に署名をされた1459家族の中から、過去一度でも「我々は提供を強いられた、促された、迫られた、誘導された」との訴えがあったでしょうか。
もともとコーディネーターが臓器提供を勧めることはあり得ないのです。なぜならば、提供を促す言葉を一言でも発して、それをご家族が「言葉巧みに促された」と世間に発表すれば、その瞬間に移植医療の歴史は台無しになり将来は閉ざされてしまいます。慎重に言葉を選び、提供意思の有無を確認するだけであり、促すはずはないのです。ある県のコーディネーターは、「患者情報が入りご家族に会いに行っても、提供の承諾は10回に1回以下である。それでも我々は全く構わないし、例え拒否されようとも臓器提供のことを説明できるだけでありがたい」と言っていました。

5.ではどうすればよいのか

臓器提供問題で火急に解決しなければならないのは、脳死問題でも虐待問題でもありません。提供者が諸外国に比べ圧倒的に少ないことです。特に今年2013年では、1月から6月までに脳死下提供が20例、心停止下提供が16例といずれも減少し、特に年間心停止下提供数は過去最低になりそうです。
これを解決する最も簡単な方法は、全国の救急病院で、脳神経外科医師や救急救命科医師が、ドナーカード所持やオプション提示を当然のこととして行うことです。国民が誤解し、メディアが性悪説を持っていても、提供側の医師が正しい知識を携えていれば問題はありません。しかし、脳神経外科学会学術総会で移植医療関連の演題を発表しているのは私一人だけです。私の発表の際に、多くの医師らが興味なしと退席することも多々ありますし、発表後も会場の反応は鈍いままです。また、移植関連学会やネットワークも脳神経外科学会へ働きかけていますが、やはり医師らの意識は低いままです。この現状では、臓器提供数が減るのも当然です。ではどうすればよいのか。それには世論を動かすしかありません。
メディアが、従来の様なあら探しを止め、広く国民に向かって「臓器を提供して人を助けたいと考える国民がいるのに、人を助ける立場の医師が無関心でいいのか」と呼びかけることが、現状を打破する唯一の手段であると、私は考えます。

終わりに

この度私は、拙書の出版を機に、MediPressの貴重な誌面をいただきました。心より感謝いたします。私は、市井の一勤務医に過ぎません。しかし、脳神経外科医師としての中立な立場を利用し、日本の移植医療のボタンの掛け違いの歴史を正したい、やり直したいと考えています。皆様方に、私の活動を今後も見守っていただければ幸甚です。