臓器移植の現場から シリーズ3回目では、「献腎移植の候補になった場合の実際の流れ」についてお話ししました。第4回目の今回は、「ドナーのご家族の思い ~その奥にあるものは~」について、お話ししたいと思います。
移植医療がほかの医療と大きく違う点は、臓器を提供する第三者(ドナー)が必要であることです。
通常の医療であれば、医師、看護師などの医療者と医薬品、医療機器などで医療が施されますが、臓器移植では「移植用臓器」が欠かせません。そして、臓器提供時のドナーの状態によって、「生体移植」と「亡くなった方からの移植」に分けられます。そして、臓器提供の大原則は、「善意・無償」であることです。移植用臓器が「ギフト・オブ・ライフ」と言われることはその本質をよく表しています。
私たち臓器移植(ドナー)コーディネーターは、亡くなられた後に移植医療のために臓器を提供してくださるドナーとそのご家族に関わります。日本の臓器移植法では、臓器提供にはドナーの家族の承諾が必須です。法律上は、家族がいない場合には、本人の書面による意思表示があれば臓器を提供できるとなっていますが(臓器移植法第6条第1項第1号)、そのようなケースはまだありません。
死後の臓器提供におけるドナーは、突然死で亡くなる方がほとんどです。臓器そのものに障害や損傷があっては移植に適さないので、ドナーとなる方は病気や事故により脳に重篤で回復不能な障害がもたらされた方です。その原疾患としては、脳血管障害(くも膜下出血、脳梗塞など)が約6割、交通事故や転落などによる重症頭部外傷が約2割です(図1:これは脳死ドナーについての統計ですが、心停止後ドナーでもほとんど一緒です)。
死後の臓器提供において、ドナーが書面または口頭で意思表示を持っているのは、約半数です。残り半数は、本人の意思が不明の中で、遺される家族が判断します。その理由はさまざまです。「日頃の言動から考えると、臓器提供は本人らしい」、「どこか一部でも生きていてほしい」、「こんなに若くして亡くなるなんて無念すぎる」、「誰かの身体を借りてでも生かしたい」、「燃えて灰になるだけなら、提供してこの世に残したい」 「誰かのお役に立つのなら」、「いままでさんざん人に迷惑をかけてきた。最期くらい人のお役に立ってほしい」、「輸血で助けていただいたお返し」、「うちが臓器をほしい側だったら、やっぱり助けてほしいから」等々。どの理由も、家族の意思決定には大切な根拠です。
臓器提供の話が出るきっかけには、大きく分けて2つあります。
1つは、家族からの申し出。「本人が万が一の時には臓器提供したいと言っていた」、「日頃から献血をよくしていた」、「いつも自分のことより人のことを考えていた優しい人だから」、「もう助からないなら、何かできることはありませんか」等々。
もう1つは、医療者からの声掛け、つまり選択肢の提示です。「お元気な時に、延命治療や臓器提供について、ご本人は何かおっしゃっていませんでしたか」と主治医に聞かれて、家族がはっと気づくことがあります。突然の発症で最重症の状態であるため、家族は気が動転しています。そのため、本人に臓器提供の希望があったとしても、その時は思いいたらず、葬儀を終えた後に身の回りの品の整理をする中で、ドナーカードを発見し、「そういえば、臓器提供について聞いたことがあったのに…」と思われることもあります。
回復不可能、あるいは、終末期と診断された方の最期をどう看取っていくのか、その選択には様々のものがあります。その中の1つが「臓器提供」です。
最愛の人が回復不可能と診断されたら、最期の時をどう迎えるのか。最期の時までどう過ごすのか。本人の意向、家族の意向などを確認して、本人と家族の双方にとって最善の看取りの環境を整えられるように、医療スタッフは一生懸命考えていきます。
ところで、誰かを亡くすことは、遺された人々にどのような意味をもたらすのでしょうか?
親の死 あなたの過去を失うこと
配偶者の死 あなたの現在を失うこと
子どもの死 あなたの未来を失うこと
友人の死 あなたの人生の一部を失うこと
(アール・A・グロルマン『愛する人を亡くした時』春秋社)
死別は、過去、現在、未来、人生の一部という大切なものをなくすこと。だからこそ、死別の悲しみは深く、大きい。その悲しみに直面する人達が、臓器提供について考え、意思決定を行います。
死後の臓器提供の究極の意味は何でしょうか?それは、「絶望の中の希望」になることだと思います。
この世からその人の存在がなくなるという死から、臓器だけがこの世に、別の人のからだの中に残り、その人に新しい生を与える。そのことが、最愛の身内を亡くすという最大の悲しみの中にいる家族の決断で行われる。そして、臓器移植を受ける人が臓器を受け取って、その思いが完結する。
あるドナーファミリーの言葉です。「息子を亡くすという絶望の中で、臓器移植で命をつなぐという希望を見出せた。臓器をもらってくれた人に『ありがとう』と伝えたい。」
ドナー家族が全員このように思うわけではありませんが、「絶望の中の希望」という言葉が臓器提供の究極の意味を示しているように思います。
10代のお嬢さんの死に際し、臓器提供を選択したご両親はおっしゃいました。
「最初は娘の一部だけでもこの世に残したい思いで臓器提供をしたけれども、結果として、病気で苦しむ人が救われたのであれば、それは良かったと思います。娘は、社会で何もできずに若くして旅立った。だから、最後に誰かの役に立った、命を救ったのであれば、そんな大きな立派なことをした娘を褒めてやりたい」
谷川俊太郎さんの詩に「終わりと始まり」があります。
~中略~
終わりと始まりを辞書は反意語と呼ぶけれど
終わりが終わるとき始まりはもう始まっている
~中略~
古い年の終わりに穏やかに枯れていくものたち
新しい年の初めに生き生きと芽吹くものたち
そのどちらも同じいのちのひとつ
切り離してしまえるものは何ひとつないのだ
(谷川俊太郎・徳永進『詩と死をむすぶもの-詩人と医師の往復書簡-』朝日新聞出版)
死に際しての臓器提供・臓器移植も、これと同じように思います。
ドナーの人生は死で終わる。臓器の提供を受け、レシピエントの新たな人生が始まる。終わりと始まり、が臓器提供・移植でつながる。
そして、ドナーファミリーの「絶望の中の希望」をかなえるのは、レシピエントです。レシピエントは、第一義的には臓器の移植を受けて助けられる側ですが、ドナーファミリーの希望をかなえる側でもあるのです。そう考えると、臓器提供・移植が完結するのは、ドナー、ドナーファミリー、レシピエント、ドナー側の医療者、レシピエント側の医療者、そして、ドナーとレシピエントをつなぐ臓器移植コーディネーターの存在があってこそ。それぞれの立場でかかわり、ドナーとその家族の思いをつなぐよう、ベストを尽くす。どこが欠けても、移植医療は完結しません。
そう考えると、臓器移植は単に「臓器をあげる」「臓器をもらう」だけではなく、死とは、生とは、という深遠な問題に思いをはせて、行われるべき医療であると思います。
さて、この連載もラスト1回を残すところになりました。次回最終回では、「日本において移植医療が発展するために必要なこと」について書き、みなさんと一緒に考えたいと思います。