臓器移植の現場から シリーズ4回目では、「ドナーのご家族の思い ~その奥にあるものは~」をお届けしました。第5回目、シリーズ最終回の今回は、「日本において移植医療が発展するために必要なこと」について、お話ししたいと思います。
連載も、今回で最終回を迎えます。夏から始まった連載も、最終回は冬。時が経つのは早いものです。
最終回は、現在の日本の移植医療の現状をお伝えし、今後日本で移植医療が発展していくには何が必要かをみなさんと一緒に考えたいと思います。
1997年に日本で脳死からの臓器提供を可能にした「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立・施行されました。それ以前は、1980年に施行された「角膜及び腎臓の移植に関する法律(角腎法)」により、心臓が停止した死後の角膜や腎臓の提供・移植が行われていました。しかし、死後に提供された腎臓の移植(献腎移植)は年間200例程度で、日本では腎臓移植といえば圧倒的に生体腎移植が多く行われていました(2010年1276例)。
さて、1997年施行の臓器移植法は、脳死からの臓器提供には提供者本人の書面による意思表示と家族の同意の両方を必要とし、「世界で一番厳しい法律」と言われていました。なぜなら、世界的には、本人の意思または家族の同意があれば、臓器提供できるようになっていたからです。書面による意思表示が必須でしたので、本人が口頭で明らかに希望していた、書面は書いていたはずだけれど紛失した、という場合には、残念ながら、脳死での臓器提供ができませんでした。実際にそのようなケースもあり、「本人はあれだけはっきり意思表示していたのに、私が一番よく知っているのに、どうして提供できないの」といった無念にも似た思いを抱いた家族もいらっしゃいました。
また、法施行当初は、臓器提供意思表示カードの記載不備で、たとえば、「個々の臓器にはすべて丸がついているのに、番号に丸がないから完成された意思表示とみなせない」という理由で、脳死での臓器提供はできないということもありました。家族にとっては、「たとえ丸がなくたって、明らかに本人の意思なのに…」と納得のいかないケースも少なくありませんでした。
意思表示の条件が非常に厳しかったので、1997年法ではなかなか脳死での臓器提供数が伸びず、多くても年間10例ほどでした。そのような中、国内では臓器移植が期待できないということで、海外にいく患者さんがあとを断ちませんでした。国際的な情勢からも、「臓器移植は自国内で完結しましょう」という方針が出され、2009年に改正臓器移植法が成立、2010年7月17日施行されました。これにより、本人の拒否の意思表示がなければ、家族の同意で脳死からの臓器提供ができるようになりました。これは大きな進展だったと思います。なぜならば、これまで書面がないことを理由に脳死での臓器提供ができなかったケースに、家族の同意で脳死での臓器提供の道が広がったからです。改正臓器移植法施行後は、脳死での臓器提供が全体の4割程度まで増加したことは、法改正の効果だといえます(図1)。
そして、改正臓器移植法の下で行われた脳死での臓器提供では、8割近くが書面による意思表示のないケースでした(図2)。また、半数以上が本人の口頭の意思もなかったケース(まったくの意思不明)で、家族の判断でのみ臓器提供されています。このことからも、1997年法では脳死下臓器提供の可能性が大きく制限されていたといえます。
臓器移植は、「移植用臓器」があって初めて成り立つ医療です。つまり、臓器提供者(ドナー)が不可欠です。日本で亡くなった方から提供される臓器の移植を進めるために、法律上非常に厳しかった臓器提供承諾の要件は2009年の法改正で改善されました。次には、何が必要なのでしょうか?
臓器提供・移植について一人一人が考えること、意思決定することだと思います。
死後の臓器提供において、本人の意思が明確であれば、「意思を尊重したい」という思いで家族は臓器提供を決断しますが、本人意思が不明の場合は、「どこか一部でも生きていてほしい」、「社会のお役に立つならば」という思いで決断します。
これまで、たくさんのドナー家族と関わらせていただいた中で、やはり、ドナーの意思がはっきりしているかどうかが家族の決断に大きな影響を与えるように思います。臓器提供の意思決定をするときには、本人は重篤で意識不明の状態であることが多いので、本人に聞いても答えてくれません。家族は本人の気持ちを推し量るしかありません。でも、本人が本当はどう考えていたかが事前に分かっていれば、判断に際して迷いが少なくて済むでしょう。直接的な言葉でなくても、日頃の言動や人柄から「最期に臓器提供をするのが本人にとっては自然なことなんだ」、「本人らしい行為なんだ」と家族が思えれば、無理なく臓器提供を決断できるのだと思います。
しかし、ドナーの意思がはっきりしていない場合、または推定が困難な場合、家族が判断する根拠は何なのでしょうか。それは、「このまま骨にしたくない」、「この世に一部でも残ってほしい」という家族側の理由になるのだと思います。家族承諾による臓器提供でも、確固たる思いに支えられ、後で決断が揺らがなければ良いのですが、事後迷いが生じることもあります。実際に、「臓器を提供したけれども、後になって考えてみると私達が勝手に判断したのではないか。本当は本人はどう思っていたのだろう。夢に出てきて『いいんだよ』と言ってくれればいいけれど、それもない…」と悩む方もいらっしゃいました。
また、本人の意思表示が明らかであっても、意思決定の際に家族が悩むこともあります。それは、本人の意思決定の過程や根拠が家族と共有されていない場合に生じます。たとえば、離れて暮らしていた子どもが臓器提供の意思表示カードを持っていた。でも、どうしてカードを書いたのか、本人の口から聞いたことはない。だから、本当はどういうつもりで書いたのかわからない。でも、本人は意識不明の重体で、もはや聞いても答えてくれない…。カードの表記からは本人の意思決定の経緯は分かりません。このような状況下では、家族は悩みます。最終的には、人柄、日頃の行いなどから推察していくしかないでしょう。また、友人知人が経緯を聞いていれば、その人たちから話を聞くと納得できるかもしれません。「カードは書いた。あとは家族の判断でよろしく。」という考え方は多いかもしれませんが、遺される家族には酷な場合もあり得ます。
「臓器を提供する/しない」の根拠は人さまざまだと思います。私の場合は、現職に就く前から、様々なドナーカードを書いて持っていました。腎臓バンクカード、アイバンクカード、骨バンクカード、臓器提供意思表示カード、そして骨髄バンクにも登録していました。何がきっかけで腎臓バンク等を知ったのかはもはや覚えていませんが、自分が死ぬ時に臓器が誰かの役に立つのであれば、私にはもはや要らない臓器を使ってほしい。簡単にいうと、リユースという気持ちで登録しました。骨髄ドナーの意思も、健康な私の身体で誰かが助かるなら、と献血の延長程度の気持ちで登録しました。家族には私の思いは話してありますし、移植コーディネーターの仕事をしていることからも、私の最期においてはきっと家族は臓器提供を決断してくれると思います。
臓器提供も臓器移植も、日常的にはなじみのないことです。しかし、臓器のドナーは突然死で亡くなる方がほとんどですし、臓器移植を受けるレシピエントでも突然発症して臓器移植の対象にという方も少なくありません。自分や家族が死ぬことや重い病気になることなどはあまり考えたくないことではありますが、「わが身のこととして考える」という意識や姿勢を持つことが様々な社会問題を考える際には必要ではないでしょうか?
今月、衆議院議員総選挙があります。政党の掲げるマニュフェストは、私たちの生活に直結する問題解決に対するものが多いのですが、お恥ずかしながら、たとえばTPPの問題は正直、私にはあまり実感がありません。臓器提供・移植も、多くの人々にとってはそんなものかもしれません。
「死について考えることは生について考えること」とよく言われます。死は誰にでも訪れます。元気なうちはなかなか実感を持ちづらいのですが、自分の最期の在り方を考えることは今をどう生きるかを考えることにつながると思います。
最後に、法制度と個人の意思決定を基に臓器提供・移植が実現されるには、病院におけるシステム作りが不可欠です。年間死亡者数110万人のうち、ドナーは110人、実に0.01%です。そして8割が病院での死亡です。病院で死を迎えることが多い中、最期の意思が臓器提供であれば、病院はその意思を生かせるようにシステムを作る。医療者は適切な支援ができるよう専門家としての知識を得る。国や地方公共団体がそれを支援する。臓器提供の意思を生かせるようにハード、ソフト面を整えて初めて、一人一人の意思決定が実現します。
献血、骨髄提供など、自分の身体の一部を提供する医療のボランティアがありますが、死後の臓器提供は最期の究極のボランティアだと思います。そして、それは、ドナー本人と家族、そして病院スタッフの共同作業です。自らの死に際し、また、身内を失うという最大の悲しみの中で決断する臓器の提供を、適正に実現できるように法制度は支え、医療者は専門家として支え、社会はその決断を優しく温かく受けとめる。そのためには、国民一人一人が正しい知識を得て、自らのこととして良く考える。このことこそが、日本において臓器移植医療が発展するために必要なことだと思います。