戸田中央総合病院レシピエントインタビュー第2回目は、約4年半前に妹さんがドナーとなり、生体腎移植を受けた緑川美智子さんです。緑川さんは、2人のお子さんを出産後、高血圧症で通院を続けていましたが、49歳の時に血液透析導入となりました。透析導入から約10年後、移植手術を受ける直前に乳がんが見つかり、翌年には妹さんにも乳がんが見つかりましたが、共にがんの手術と治療を乗り越え、移植手術に臨まれました。移植後、お仕事にも復帰され、充実した毎日を過ごしていらっしゃる緑川さんから、さまざまなお話をお聞きすることができました。
緑川さんが移植を受けるまでの経緯
- 1977年(29歳) 第1子出産 妊娠高血圧症候群のため入院
- 1982年(34歳) 第2子出産 再び妊娠高血圧症候群のため入院
- 1984年(36歳)~ 高血圧症のため外来通院開始
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1997年(49歳) 血液透析導入
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2010年4月(62歳) 生体腎移植手術
透析導入
腎不全の症状が出始めたころの状況を教えてください。
緑川さん:
29歳で第1子、34歳で第2子を出産したのですが、いずれの時も妊娠高血圧症候群(妊娠中毒症)となり、蛋白尿や高血圧などの症状が出て、3週間ほど入院しました。実は、1人目の妊娠・出産が大変だったこともあり、2人目を妊娠した時には、主治医から、「母体のことを考えると産まない方がいいと思います」と言われたのですが、「私の命は無くなっても構いません」と言って出産しました。
その後、恐らく妊娠高血圧症候群が影響したのだと思うのですが、36歳の時に高血圧症となり、それから約13年間、通院を続けました。
先生、妊娠高血圧症候群の既往歴がある方は、次の妊娠の際にも同じような症状が出ることが多いのでしょうか。
松田先生:
そうですね。一度そのような状態になったことがある方は、次の妊娠の際にも繰り返す傾向がありますので、注意が必要です。
ただ、現在は緑川さんが妊娠・出産された時に比べると医療もさらに進歩していますので、早めに分娩させる計画を立て、安全に出産できる体制が取られていると思います。
高血圧症で通院を始めたころ、お仕事はしていらっしゃったのですか。
緑川さん:
もともと看護師の仕事をしていましたので、通院し始めたころに病院での仕事を再開しました。当時は血圧もそこまで高くありませんでしたので、自分の病気を軽く考えていましたね。その後、病院から訪問看護ステーションに異動となったのですが、通勤時間が長くなり大変でした。その頃から下肢にむくみが出始め、クレアチニン値が限界に近い状態となったため退職し、診療所のパートタイムの看護師として再就職しましたが、その後は坂道を転がるように血液透析導入となりました。
透析導入の際に移植の話はあったのでしょうか。
緑川さん:
当時の主治医の説明では、「治療法には、血液透析と腹膜透析、後は移植がある」ということでしたが、移植の説明は通り一遍で、生体腎移植に関する詳しい話も無く、血液透析か腹膜透析を選ぶのが一般的という感じでした。透析を開始して間もなく、献腎移植希望の登録はしましたが、当時は私自身も移植に関する知識は全くありませんでした。
後になってから主治医だった先生に、「移植のこともきちんと教えてください。そうしないと助かる人も助からないと思います。」と言ったのですが、先生からは、「私の患者さんの中には、海外で移植を受けたものの術後の状態が悪く、結局透析に戻ってしまった方もいるので、移植を勧めたくありません」と言われました。
先生、移植医療はその当時よりかなり進歩したと思いますが、最近は、末期腎不全の患者さんへ、移植のオプション提示をされる腎臓内科の先生も増えているのではないでしょうか。
松田先生:
ここ5~10年くらいは、積極的に移植のオプション提示をする腎臓内科医が増えてきていると思います。それまでは、移植が安全でとてもいい治療だということを理解している腎臓内科医が少なかったため、患者さんの人数が多く、診察経験も豊富な透析治療であれば予後が見通せるということで、透析を勧めるケースが多かったのだと思います。
移植医療との出会い
その後、透析中はどのような生活を送っていらっしゃいましたか。
緑川さん:
私にとって透析は精神的にとてもつらいものでした。その日の透析が終わっても、「明後日にはまた病院に行かなければいけない。私の人生が終わるまで透析は終わらない。」と思うと、全てが終わったように感じました。
そのような状況でしたが、透析をしながらも、息子と一緒に海外に行ったり、以前からやりたかったことを実現させたりもしました。私は高校生のころから、画家のゴーギャンが好きで、サマセット・モームの著書、『月と六ペンス』(ゴーギャンをモデルにした小説)を読んでから、「タヒチに行きたい。人生の終わりはタヒチで過ごしたい。」と思っていました。助産師の資格も持っていましたので、タヒチでお産でも手伝いながら過ごし、そのうちに、「東洋から来たあのお婆さんはいなくなったね、死んだのかしらね」と言われながら、一生を終わりたいと思っていたのです(笑)。
しかし、透析をしなければならなくなってしまったので、タヒチへの移住は諦め、日本の南の島で透析が受けられるところを探し、透析導入から約9年後の2006年、58歳の時に仕事を辞め、その年の6月半ばから8月末までの2カ月半ほどを石垣島で暮らしました。その時住んでいたアパートの向かいが病院でしたので、南国の空気を吸いながら1日おきに透析を受けていたのですが、透析以外はすることが無く、とても暇でしたね(笑)。そのため、デイサービスの門を叩き、ボランティアで沖縄のおばあの話を聞くことになりました。おばあの言葉は全く分からなかったのですが(笑)、とても楽しい経験でしたね。透析を受けながらマンゴーを食べたり、バナナを食べたりして過ごしたあの夏は、本当に幸せでした。
緑川さんはとても行動力があるのですね!透析中の体調面はいかがでしたか。
緑川さん:
体調面では、それほどつらいことはありませんでした。ただ、透析導入から7~8年経過すると、血圧が下がったり、足がつったりするようになり、きつかったですね。血圧が下がって気分が悪い時に、同じタイミングで足がつるのです。
生体腎移植については、どのようにして知ったのでしょうか。
緑川さん:
透析を受け始めてから10年近くたったころ、周囲で、「生体腎移植を受けた」という話をよく聞くようになりました。また、全国腎臓病協議会(全腎協)という組織に入り、妹と一緒にいろいろな移植に関する勉強会に出掛ける中で、それまで知らなかった多くの知識を得ることができました。例えば、「長い期間透析を続けると骨が弱くなりますが、移植をすることによってその進行が止まる」というような話です。当時私はまだ50代でしたから、透析によって骨がもろくなるのが、とても怖かったですね。
生体腎移植を受けた方がいるというお話を聞いて、どう思われましたか。
緑川さん:
うらやましかったですね。その頃、私の母は70代でしたので、母に、「万が一、もう死ぬと分かったら、生きているうちに腎臓をちょうだいね。そうしたら移植してもらうから。」などと冗談を言っていましたが、88歳まで生きた母からは、「私の88歳の腎臓じゃ無理だねえ」と言われましたね(笑)。
今でしたら、70代のお母様でも、ドナーになれたかもしれないですね。
松田先生:
そうですね。現在は、70代の方でも術前検査で問題が無ければ、ドナーになることが可能です。