戸田中央総合病院レシピエントインタビュー第4回目は、約8年半前にご主人がドナーとなり、生体腎移植を受けられた平山富美子さんです。平山さんは46歳の時にバセドウ病となり、その後、51歳の時に腎不全と診断されて腹膜透析導入となりました。腹膜透析中に大分記念病院にて東間先生(戸田中央総合病院名誉院長、前東京女子医科大学泌尿器科教授)に出会い、透析導入から約5年後に戸田中央総合病院で移植を受けるまでのお話や、移植手術後の半年間の入院を乗り越えられた時のお話、退院後大分のご自宅に戻られた後に訪れた数多くの幸せについてお聞きすることができました。

平山さんが移植を受けるまでの経緯

  • 2000年(51歳) 腎不全の診断を受け入院 その後通院も開始する
  • 2001年(51歳) 腹膜透析導入
  • 2004年(55歳) 腹膜透析に加え週1回の血液透析も開始
  • 2005年(56歳) 腹膜透析に戻る
  • 2006年3月(56歳) 生体腎移植手術

腹膜透析導入へ

まず初めに、腎不全の症状が出始め、透析導入に至るまでの状況について教えてください。

平山さん

平山さん
結婚して3人の子どもを出産しましたが、妊娠・出産時には特に異常はなく、子育てに忙しい毎日ではありましたが、普通に健康な生活を送っていました。その後、46歳の時に急に体重が減り始め、お茶を入れるときなどに手が震えるようになりました。自分では疲れのせいだと思っていたのですが、病院を受診したところ、バセドウ病だということが分かりました。その後、服薬治療を続けていたのですが、治療開始から3カ月が過ぎたころから状態が悪くなり、定期検査で肝機能の数値であるALT(GPT)が2000IU/L(基準値は30IU/L以下)を超えていることが分かり、バセドウ病の治療薬による急性肝炎で緊急入院となりました。入院から1週間が過ぎたころに真っ白い便が出て、びっくりした記憶があります。1カ月半の入院治療後、バセドウ病の手術を受けました。
それ以降、肝臓の定期検査で毎月通院していましたが、何も指摘されることはありませんでしたので、安心していました。ところが、手術から3年後の51歳の時に血尿で受診したところ、突然腎不全と診断されました。特に自覚症状は無く、疲れを感じることはありましたが、忙しいのと肝臓のせいだと思っていましたので、本当に驚きました。その年の12月には発熱や吐き気、下痢などの症状で再入院することになり、翌年の1月、51歳の時に腹膜透析導入となりました。

透析導入の際、腹膜透析を選ばれたのはなぜでしょうか。またその際に移植の話はありましたか。

平山さん
透析導入の際には、血液透析と腹膜透析の2つの選択肢しかありませんでした。子育てや家事のこともありましたし、この先ずっと透析をしなければならないと思っていましたので、まずは腹膜透析で頑張り、その後に血液透析に移行しようと考えていました。
透析導入からしばらくして、移植という治療法があることを知り、自分も移植ができるのかをお聞きしましたが、当時の主治医からは、「平山さんはB型肝炎キャリアで移植はできませんので、血液透析と腹膜透析をお勧めしたのですよ。」と言われました。

東間先生との出会い

移植は難しいと言われていたものの、再度移植を検討してみようと思ったのはなぜですか。

平山さん
腹膜透析導入から3年がたったころ、透析が不十分となり、週1回の血液透析も受けるようになりました。血液透析を受けるようになってからは本当に体がしんどく、透析を受けた日は家族の食事を作ることもできないような状態が続きました。その頃、同じ病院に通院していた友人から、「一緒に米国に行って移植をしよう」と言われました。そして友人に連れられ、大分記念病院に来られている東間先生に相談をしに行きました。

東間先生は、いつごろから大分記念病院で外来を担当していらっしゃるのですか。

東間先生

東間先生
私は、東京女子医科大学泌尿器科教授を務めていた17~18年前からこちらの病院で外来を担当しています。
東京女子医科大学病院には、移植手術を受けるために全国から患者さんがいらっしゃいます。移植後の患者さんは定期的な通院が必要ですが、毎回東京まで来ていただくのは大変です。そのため、全国で移植後の患者さんをフォローできる体制を作ろうと、各地の先生方に東京女子医科大学病院で腎移植を1年間勉強していただき、地元の病院に帰って診察できるようになっていただくという取り組みを行ってきました。当時、腎移植をはじめ、移植のことについて一般市民はもちろん、医師でも正しい知識を持った人は少なく、そのことが日本で移植医療が進展しない要因の一つになっていると考えていました。そこで私たちは、全国津々浦々のできるだけ多くの医師に移植の知識を持っていただき、診療を担当していただくことは、移植を普及させることにも役立つのではないかという思いもあり、そうした研修プログラムを作り実践してきたわけです。今では多くの移植医が全国各地で活躍してくれています。
私はたまたま大分県出身ということもあり、17~18年間、月に1回こちらの病院で外来を担当し、移植後の患者さんを診ています。

大分県でも腎移植を受ける方は少しずつ増えているのでしょうか。

東間先生
これまでは、移植手術ができる病院があまりありませんでしたので、移植を知らない方が多かったのではないかと思います。現在は、当院でも20~30人の移植患者さんが通院していますので、外来に来ている患者さんからも移植に関する情報が口コミで広まっているのだと思います。県全体の透析患者数からするとまだまだですが、徐々に移植を受ける患者さんも増えています。

初めて東間先生とお会いした時にはどのようなお話がありましたか。

平山さん
先生にお会いした際に、米国での移植を考えていることをお話ししたのですが、先生からは、「米国で移植をするといっても、時間と費用がかかりますので、可能なのであれば生体腎移植を検討してはどうですか?」というお話がありました。その時主人も同席しており、夫婦間移植も可能だというお話をお聞きしたので、そこから生体腎移植に向けて進んでいくことになりました。

ご主人はドナーになることに不安はなかったのですか。

平山さん
当時、私の腹膜透析が限界にきており、とても体調が悪かったので、主人はドナーになることへの不安などは口に出しませんでした。万が一、3人の子どもを残して私が居なくなるようなことになっては困るというのもあったのかもしれません。私も血液透析がきつく、どうしても移植がしたかったので、主人がドナーになってくれるものと思って接していました。主人は今頃になって、「実は少し怖かった」と言っていましたね(笑)。

その後、移植に向けてどのようにお話が進んでいったのですか。

平山さん
東間先生から、「今は肝臓のいい薬もあるので、術前検査をしっかりと行い、問題が無ければ移植は可能です」というお話をお聞きし、東京女子医科大学病院の泌尿器科と連携して腎移植手術が行われている戸田中央総合病院を紹介していただきました。そして、実際に戸田中央総合病院を受診して具体的な移植の説明を受け、安心して大分に帰ってきました。
東間先生のお話で、「どーん!」と移植への道が開け、絶対に良くなると確信しました。その時から将来に希望が持てるようになりました。

移植手術が決まってから、実際の手術までの期間はどのくらいでしたか。またその期間の生活で特に気を付けていたことはありますか。

平山さん
移植手術までは1年くらいだったと思います。風邪を引いたりしないように気を付けていました。
移植前の3カ月間は血液透析を受けたのですが、私にはそれがとてもきつかったですね。血液透析を受けた日は何もできなかったので、前日から、カレーやシチューなどの家族の食事を作り置きして、透析から帰ると寝ていました。でも、移植という目標があり希望があったので、気持ちは前向きでした。