第1回目としてインタビューさせて頂いたのは、約6年間の保存療法、3年間の腹膜・血液透析を経て、2005年12月に奥様がドナーとなり生体腎移植手術を受けられた、成田健之介さんです。
生体腎移植を知ったきっかけや、打田先生との出会い、ドナーとなられた奥様とのエピソードなど、生体腎移植までの道のり、そして、大学の教員として、NPO法人 日本移植未来プロジェクトの副理事長として、農産物のネット通販会社の副社長として、多方面でご活躍されている現在の様子などをお聞きする事が出来ました。

成田さんが移植を受けるまでの経緯

  • 1988年頃~ 慢性腎炎
  • 1996年~ 保存療法
  • 2002年10月 腹膜透析導入
  • 2005年4月 血液透析移行
  • 2005年12月 生体腎移植手術

普通の人と変わらない日々、そして保存へ

病状が出始める前の生活を教えてください。

成田さん:
中学校の社会科の教員として、ハードな仕事をこなし、不規則な生活をしていましたが、30代前半までは病気一つする事なく、スキーには毎年行くなど、普通の方と変わらない生活をしていました。

腎不全の病状が出始めたのはいつからですか?また、その時の様子を教えてください。

成田さん:
30歳台半ばに職場の検診で蛋白尿を指摘されて以来、1ヶ月か2ヶ月に1回検査の為に通院していました。 蛋白尿が長期間続きましたが、自覚症状はなく、まさか自分が透析導入になるとは思っていませんでした。
40歳台前半でクレアチニンが3以上になり、食事療法を強化して保存期に入りました。蛋白制限が厳しく、調理をする妻に随分と負担をかけた時期だったと思います。40歳台後半は貧血がひどく、昇降や動いた時の頻脈、疲れを強く感じていました。
体調が悪化し、痒みなど尿毒症的な症状を中心とした自覚症状が出たのは、腹膜透析導入後に腹膜炎を併発するようになってからです。極度の貧血で、しばらくは杖を使って歩いていました。座った状態から立ち上がることが出来ず、レストレスレッグス症候群(むずむず脚症候群)で睡眠不足が続きました。思考力と集中力が無くなり、新聞や文献、図書は勿論、日常的に使っていたメールでさえも、おっくうになりました。

杖を使って歩いていた頃

そして透析導入へ

透析にはいつから入りましたか?また当時の心境、状況を教えてください。

成田さん:
慢性腎炎という診断を受けてから約15年後、2002年10月から腹膜透析を開始しました。透析前は、「透析になったら人生はおしまい」という悲痛な気持ちでした。もちろん透析をしながら様々な事にチャレンジされている方もいらっしゃると思われますが、自分にとっては、週に3日間拘束され、自由な時間が無くなるという事がもっとも辛いと感じていました。
しかし、最初に腹膜透析を選択したため、自宅での透析が可能で、思ったよりも自由に生活が出来ました。腹膜透析も最初は上手くいっており、国内旅行だけでなく、2002年12月にはイギリスに国際交流学習のご縁で旅行したこともありました。1日4回の透析液の交換も、「慣れれば生活スタイルとしてやっていける」と感じており、当時は腹膜透析で10年以上はもたせたいと思っていました。
しかし、一度、腹膜炎に罹ってからは、頻度の高い腹膜炎発症に悩みました。腹膜炎をきっかけに、急性膵炎、食道潰瘍、低ナトリウム症を併発しました。体調が良く、何かに取り組み始めると、途端に腹膜炎を発症していました。疲れたり、少し無理をしたりすると繰り返して発症していたようです。
その内、透析効率が悪化した為、2004年7月から腹膜透析と血液透析を組み合わせたハイブリット療法を経て、とうとう2005年4月から血液透析に移行しました。血液透析に移行し、睡眠障害が改善され、生活は楽になりましたが、両足の強いしびれ、昇り階段での息切れ、太股あたりの疲れが強くなりました。また、血液透析導入後しばらくして無尿になり、厳しい水分制限に苦しみました。両足の強いしびれは、移植後もずっと続くことになりました。当時の主治医からは、もっと早期に血液透析に移行することを勧められていましたが、それを拒み続けた結果、移植後も末梢神経障害が残ることになってしまいました。
ただ、ちょうどその時期に、夫婦間生体腎移植を考え始めましたので、当時の心境としては、移植に対する期待が大きく、血液透析の苦痛も和らいでいたと思います。

イギリス旅行

打田先生:
腹膜透析で10年以上もたせるのは難しいと思われます。成田さんの場合も、腹膜炎を複数回起こされており、腹膜透析開始後1年の時点で、貧血、不十分透析となり、その状態が2,3年近く続いていたという状況ですね。成田さんご自身は血液透析ではなく、腹膜透析で頑張っていきたいとお考えだったと思われますが、今から思えば、早めに週3回の血液透析に切り替えた方がよかったかもしれないですね。
これはよく患者さんにもお話しする事なのですが、私たちプロは、今の患者さんの状態がこの先どうなっていくかを予測し判断をします。一方、患者さんは現時点の症状と現時点の環境で判断をされるのです。患者さんはこの先、今より病状が悪化するとは考えられない事が多いのです。私たちは常に、その様な認識のギャップを埋め、いかに説得するか、納得して治療に臨んで頂けるかを考えています。

腹膜透析を選択された時点で、生体腎移植という選択肢はあったのでしょうか?

成田さん:
献腎移植に関してはもちろん知っており、日本臓器移植ネットワークへの献腎登録はすぐにお願しましたが、その時点で自分に生体腎移植という選択肢がある事は知りませんでした。
幼なじみが透析を受けていたのですが、その後お母様がドナーとなり、生体腎移植をするという話は聞いていたので、うまく適合すれば、生体腎移植という選択肢もあるかなという程度には思っていました。

打田先生との偶然の出会い

生体腎移植を知ったきっかけを教えてください。

成田さん:
献腎移植については、以前から知っていました。腎不全が進むにつれて移植を希望したいと思いましたが、献腎登録に行った際にも、献腎移植は待機人数が非常に多く、移植のチャンスはほとんどないに等しいと知りましたので、移植は夢としか考えられませんでした。献腎移植登録の面談の際に、生体腎移植が出来ることを知りました。当時は顔も名前も知らず、後になって分かったのですが、面談担当医が、偶然にも打田先生でした。
その後、生体腎移植のお話を具体的に知ったのが、2005年の4月のNPO法人日本移植者協議会の東海支部の勉強会でした。たまたま透析施設の掲示板に「腎臓はひとつでも大丈夫」というポスターが貼ってあり、とても興味を持ち、お話を聞きに、妻と一緒に伺いました。
そのポスターを貼って頂いたのが山本登さん(NPO法人日本移植者協議会理事長)で、勉強会の講師が片山先生(増子記念病院)、打田先生、体験者としてお話をされたのが棚橋さんご夫妻(奥様は現在、生体腎移植ドナーの会代表でNPO法人日本移植未来プロジェクト理事)でした。
その時の一番の心配は「ドナーの健康」でしたが、棚橋さんご夫妻、打田先生、片山先生からドナーになれる条件や、移植後のドナーの健康状態について、丁寧にお答えいただき、更にセミナー参加者で、術後1週間目のドナーの方から「僕を見てください。大丈夫!」というお話をお聞きして、移植外科を受診してみたいと思う気持ちが強くなりました。

打田先生:
愛知県では、毎年、その年の献腎移植の希望者の方に集まって頂き、まず一般的なお話をさせて頂いた後に、個別の面談を行っています。移植を希望されるのであれば、移植の為の検査に進むかどうかを面談の際にお聞きしています。