移植手術に向けて
力石先生と初めて移植について話したのはいつごろですか。また、その時にはどのような話がありましたか。
末野さん:
聖マリアンナ医科大学の西部病院から紹介され、力石先生とお話ししました。移植した後はどのようなことが改善されるのかということや、ドナー、レシピエント、それぞれのリスクの話などをお聞きしたと思います。手術について不安はたくさんありましたが、術後のドナーの状態などについてきちんと教えていただいたことで安心したことを覚えています。
また、看護師の方が作られたのだと思うのですが、移植を予定している方向けのパンフレットがあり、手術までに気を付けることや、手術の際の持ち物、術後どのようなことに気を付けなければならないか等が細かく書いてあり、非常に参考になりました。
移植手術に際し、お父様やお母様とはどのようなお話をされましたか。
末野さん:
父とは移植手術そのものについては、あまり話をしなかったと思いますが、手術後の父の体調が心配でしたし、血液透析中の母の今後の体調についても不安があったため、それまで自分で貯めていたお金で、今のうちに夫婦で思い出作りのため、海外旅行に行ってきてもらうよう約束をしました。結局は静岡への旅行となったのですが(笑)。それが移植前にした、唯一の話だったように思います。
また、私の移植が決まるまで、母は献腎移植の登録をしていませんでした。母は、「移植手術によるショック死もあるかもしれない、そうするとあなたを育てられなくなるかもしれない」と言っていましたが、透析を続ける中で透析が日常化して、登録に頭が回らなかったのかもしれません。移植が決まった時に、私の方から、「献腎移植希望の登録をしてほしい」という話をしました。
移植手術が決まってから、実際の手術までの期間はどのくらいでしたか。またその期間の生活で特に気を付けていたことはありますか。
末野さん:
半年くらいだったと思います。手術に備えて特別にしていたことはありませんが、それまでと同じように、風邪などを引かないように気を付けていました。また、血液透析をしていた病院の先生から、「移植手術自体はあまり難しいものではないので、心配しなくても大丈夫ですよ」と言葉をかけていただいたため、手術に対する心配はありませんでした。
手術を終えて
移植手術を終えた時の心境を教えてください。
末野さん:
先生に肩を叩かれて、「手術は無事に終わりましたよ」と言われ目が覚めたのを覚えています。あっという間に終わったというのが当時の心境です。入院自体は、通常通り3週間くらいでした。
お父様は、手術後はいかがでしたか。
お父様:
手術が終わってすぐに妻の顔が見えました。術後はなぜかとても寒かったのを覚えています(笑)。入院は1週間くらいでした。
手術後の経過はどうでしたか。
末野さん:
手術直後に、恐らく拒絶反応の一種だったと思うのですが、クレアチニンの数値が急激に上がってしまったことがあり、とても不安になりました。
その後はたびたび風邪を引いたりして高熱を出すことはありますが、先生方の診療のおかげで順調に経過していると思います。
お父様:
おかげさまで私も元気です。介護の仕事は一日中立ちっぱなしで、夜勤も月に5日ありますが、体を動かしているためか、前の仕事をしていた時より血圧も下がりましたね。
理想の社会をつくるために
末野さんは、どのようなお仕事をされていたのですか。
末野さん:
大学卒業時に内定が決まっていた会社は、透析導入が理由で内定が取り消しになってしまいました。そのため大学を卒業した後に再度就職活動を行い、大手企業のグループの特例子会社※ に入社しました。
※ 企業が障がい者の雇用を促進する目的でつくる子会社のこと。
その会社の人事総務で、採用活動の補助や総務全般を担当していました。その会社では、内部障がい(肢体不自由以外の体の内部の障がい)だけでなく、さまざまな障がいがある方が一緒に仕事をしていましたので、その経験が今の仕事にとても生きています。
ある時、視覚障がいのある方が面接に来られました。面接が終わった後にその方から、「恐らく私は面接に落ちたので、履歴書を返してほしい」と言われました。「応募履歴書は、決まりで返すことができないのですよ」という話をすると、その人は、「私は目が見えないので、これ1枚を書くことがとても大変なのです。だから、どうしても返してほしいのです。」という話をされました。自分が障がい者になっていろいろ見えてきたことがあったのですが、その時の出来事は私にとってとても衝撃的でした。
当時、その会社を選んだのは、さまざまな障がいのある人たちが、生き生きと働いている姿に感銘を受けたからです。一緒に働いて頑張っている姿を世の中に見せれば、自分と同じような人がこれから先もっと働きやすくなるのではないかと思ったからです。ただ、その会社で働くことで、ひとつの企業モデルとして社会の役に立つことはあると思うのですが、障がいがある人自身の支援には直接結びつかないと思い、もっと大きな視点で仕事がしたいと考え、転職を考えました。
より大きな視点で、世の中の弱い立場の人達を助けたいと、自治体の仕事に就かれたのですね。
末野さん:
そうですね。今は直接的な結びつきのある部署での勤務ではありませんが、いずれは障がい者雇用などの部門で働きたいと思っています。とはいえ、行政の仕事は、常に福祉の視点が必要となりますので、いずれにしても特例子会社で働いたことや今までの経験は私の強みだと感じています。
以前は音楽の道を選びたいというお気持ちもあったとお聞きしましたが。
末野さん:
はい、音楽の教師の道も考えていました。私が障がい者になった時、「この先の自分の人生は限られていて暗いなあ。結婚もできないし、子どももきっと生まれないだろう。」と、そんなことを勝手に感じていました。
なぜそう思ったのかというと、恐らく、それまでの環境や経験で、私個人には明るい情報が少なかったからではないかと思います。そのような経験から、教員になったら子どもたちに、「厳しい状況の中でも明るい未来はあるよ」と教えられるのではないかと考えました。
その時、自治体職員と音楽教師の2つの選択肢があったのですが、自治体の職員であれば勤務先がある程度固定されていることで、親の面倒も見ることができるだろうと思い自治体職員の道を選びました。