手術後の厳しい現実
手術後の経過はいかがでしたか?
飯田さん:
急性拒絶反応のために、移植後48日目に腎摘出を行いました。
母親は「自分の腎臓がよくなかったからなのか」、と真剣に悩んでしまいました。妻を介して、「肺炎になったから駄目になっただけなので、母親のせいではない」という事を伝えました。直接私が声をかけてあげ
る事が出来れば良かったのですが、照れくさくてどうしても出来なかった事をとても後悔しています。
病院に対しては、私の治療を精一杯やってくれていたので、どうしようもないという気持ちでした。
その後の生活はどの様な感じだったのでしょうか?
飯田さん:
手術がうまくいかなかった事に対しては、入院の最中にも多少気持ちが荒れた事はありましたが、妻と子供がいるので前向きに進んでいかなければならないという気持ちに徐々に切り替わっていきました。
ただ、その後透析に入り、体調がすぐれず、会社を休みがちになる事もあり、1994年頃に完全に仕事を辞める事になってしまいました。会社帰りに透析を受け電車で帰宅するのですが、当時は駅のエスカレーター
もそんなにありませんでしたので、階段が登れずに座っていた事もありました。あまり駅の階段で座っている人はいないので、そのおかげと言ってはなんですが、最寄りの駅の駅長さんとは結構仲良くなりましたね(笑)。
その後2回目の移植を行うまでの約10年間は、肺炎や大腿骨骨頭壊死などで、入退院がとても多く、年に3回位入院した事もありました。
また、透析を行っていた頃は、私は真面目な患者ではなく、お水の管理がきちんと出来ていませんでしたので、透析施設でも看護師さんの目がよく届くベッドに寝かされることもよくありました。貧血もひどく、
家で髪を洗っている最中に倒れ、濡れた体のまま妻にリビングに運び出されてしばらく寝かされるような事があったりと、気が付くとどこかで倒れたりすることが頻繁にありました。
主夫としての出発
仕事を辞めてしばらくは家にいらっしゃったのですか?
飯田さん:
1人暮らしの経験もありましたので、食事も作れますし、洗濯も掃除も出来ますので、主夫として生活していました。スタンダードな家庭が何かは分かりませんが、妻が保育士として仕事をしていましたので。
打田先生:
飯田さんは「主夫」としての仕事を徹底してやっていらっしゃる、と言うより堂々とこなしておられる。日頃から立派だなぁ、と思っていました。夫婦の個々の環境と能力をうまく使い分け仕事の分担をしていらっしゃる。そして、家族としての単位でお子さんと一緒に幸せに生活しておられる。理想の家庭ですね。
飯田さん:
最近は『イクメン』という言葉があるように、男性が主夫をする事も浸透はしてきていますが、その頃は今の様な状況ではなかったので、近所の方からは、「あの家は旦那さんがいつも家にいるな。もしかして最近倒産した〇〇会社の人??」と噂されていたと思いますよ(笑)。