名古屋第二赤十字病院レシピエントインタビュー第5回目は、約15年前に奥様がドナーとなり、生体腎移植手術を受けられた、棚橋隆さんです。棚橋さんは15歳で腎炎と診断されてから、透析導入までの42年もの間、徹底した食事制限を続け、57歳の時に奥様がドナーとなり、腎移植手術を受けられました。当時はまだあまり行われていなかった夫婦間移植に臨まれた時のお話や、移植後、夫婦二人で充実した毎日を過ごしていらっしゃる現在のご様子などを、ドナーの奥様も交えお聞きすることができました。
棚橋さんが移植を受けるまでの経緯
- 1957年(15歳) 腎炎の診断を受ける
- 1982年(41歳)頃 高血圧で消化器専門の開業医にかかり始める
- 1996年(55歳)頃 尿毒症の症状が出始める
- 1997年(56歳)頃 保存療法開始
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1999年5月 血液透析導入
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1999年8月(57歳) 生体腎移植手術
厳しい食事制限の始まり
腎臓病と診断されたころの様子をお聞かせください。
棚橋さん:
15歳までは、特に何もありませんでした。15歳の時に初めて医師から腎炎と診断され、「治らない、薬は無い、安静にして塩分とタンパク質を控える食事療法以外ない」と言われました。また、「いずれ尿毒症になるだろう。そうなったら命が危ない。」と、それとはなしに言われました。
先生、棚橋さんが腎炎と診断された1957年当時、人工透析はあったのでしょうか。
渡井先生:
日本で人工透析が広まったのは1970年代の前半くらいですので、1957年ごろは、透析は一般的な治療法ではありませんでした。
腎炎と診断された後は、安静にして、食事療法を続けていらっしゃったのですか。
棚橋さん:
医師が、「安静にした方がいい」と言うので、その言葉に従い、17歳の時には1年間休学しました。病院に入院するお金がなかったので、自宅でずっと安静にして寝ていましたが、あまり改善はしませんでした。その後25年近く、目立った症状は出ませんでしたが、足や顔がむくむということはしょっちゅうありました。
社会人になってからは、どのような生活でしたか。
棚橋さん:
仕事を始めてからも、なるべく安静にすることを心がけ、食事も、「塩分とタンパク質を控える、これしかない」と思ってやってきました。味噌汁なども飲んだことはありませんでした。仕事は相当ハードな時もありましたけれども、何とかやってこられました。
そのおかげで、腎炎と診断されてから移植するまでの42年間、腎臓をもたせることができたのですね。先生、これは厳しい食事制限を続けてきた成果ですね。
渡井先生:
そうですね。現在は透析が一般的治療として行われるようになっているので、生活の質を極端に損なうような食事制限は行われていません。しかし、棚橋さんが腎炎と診断されたころは、腎不全は寿命にそのまま直結していましたから、命を守るために厳しい食事制限や安静療法をしていた時代です。
棚橋さん:
食事制限は厳格にしていましたが、お酒は飲みましたね(笑)。仕事でストレスが溜まりますので、仕事を終えた後に、関係者と何人かで飲みに行っていました。飲み仲間があちこちに大勢いたので、夕方になると電話がかかってくるのです(笑)。毎日午前様で帰っていたこともありましたね。特に忘年会のシーズンは義理があるものですから、2つくらい掛け持ちをすることもありました。でも、不思議と宴会の食事でも、塩分は控えるようにしていました。
奥様(ドナー):
当時は家で食事を作る際にも、腎臓病の食事の本を参考にしたりして、タンパク質や塩分を制限するように、とても気を付けておりました。主人は職場にお弁当を持って行っておりましたので、昼食だけはわりと管理できていました。食材も厳選し、理科の実験のような小さな計量器で分量を量って作るのですが、主人は、「これでも多いんじゃないか」と言うのです。きちんと量っても取り過ぎていないか心配だったのですね。
さまざまな症状と闘って
その後、むくみ以外の症状が出始めたのはいつごろでしょうか。
棚橋さん:
1982年(41歳)ごろ、朝起きるとフラフラする症状が何日も続きました。事務所に友達が遊びに来たので、その話をしたら、「知り合いの医者がいる」ということだったので、紹介してもらいました。その開業医は内科・胃腸科だったのですが、診察を受けたところ、収縮期血圧が203mmHgで拡張期血圧が120mmHgもあり、心肥大、高血圧症と診断されました。それ以降、血圧管理のためにその開業医に1カ月に2回通院していました。同時に慢性腎炎の話をしましたので、そのころから尿の検査も始めたのですが、その医師は、腎臓に関しては全く詳しくありませんでした。また、私には血圧の薬もどのようなものが処方されているのか知らされていませんでした。採血をしても、何のための検査なのかということも一切教えてもらえませんでした。つまり、患者は黙っていればよい、という姿勢でしたね。
その後の病状はいかがでしたか。
棚橋さん:
1996年(55歳)ごろになると尿毒症の症状が出始め、1997年の3月終わりに、名古屋第二赤十字病院に入院しました。
入院の1年前には、戦死した父の慰霊のために、サイパンに行ったのですが、まるで鉛を引きずっているように足が重く、歩くのが苦痛になりました。食事の際には、血圧が急低下したのか、すーっと意識が引いていくような感じになり、冷や汗が出てきて、ふらふらの状態になってしまいました。
また、その年の後半になってくると、今度は風邪をひいても治らず、熱も下がらない、食事のにおいをかいだだけで吐き気を催す、という状態になりました。私はお酒が好きだったので、ウイスキーやブランデーのオン・ザ・ロックを飲んでいたのですが、飲むとすぐに戻してしまいました。食べ物も野菜とフルーツくらいしか食べることができませんでした。
さらに、その翌年(1997年)の初めには、鼻血が出始めました。耳鼻科に行って止血の処置をしてもらうと、3~4日はもつのですが、また鼻血が出るのです。
その繰り返しで止まらないので、それまで通っていた開業医とは別の、妻の知り合いの開業医にかかって検査をしたとこ
ろ、クレアチニン値が5.8mg/dl、ヘマトクリット値が23.7g/dlとなっており、直ちに名古屋第二赤十字病院の腎臓内科を紹介してもらいました。その時初めて、「腎臓内科」という診療科目があることを知り、「こんな素晴らしい病院があったのか」と思いました。「保存療法」という治療法や、「低タンパク高カロリーの食事療法」があることも初めて知りました。
また、名古屋第二赤十字病院で保存療法を開始してからは、球形吸着炭とか、炭酸カルシウムとか、電解質のバランスをとるような薬の処方を受けたのですが、私はそれまで、そんな薬があることも知りませんでした。腎臓内科に入院する前
は、ものすごく気持ちが悪くて吐き気がするなどの尿毒症の症状が出ている時がありましたから、これまでに高血圧症でかかっていた医院で、もう少し早く「腎臓内科という診療科目がある」とか、「保存療法という方法がある」ということを教えてもらえていたら、腎臓をもっと長くもたせられたと思います。そうは言っても、内科・胃腸科の開業医でしたから、知らないのも無理もなかったのでしょうか。
渡井先生:
それでもそこまで腎臓がもったのは、ご自身でしっかりと食事を管理されていたからですね。
名古屋第二赤十字病院に入院されてからは、すぐに透析導入となったのですか。
棚橋さん:
1997年に初めて名古屋第二赤十字病院に入院した際、いつ透析になってもいいように、シャントを作り、保存療法を開始しましたが、すぐに透析導入にはなりませんでした。
その後、入退院を繰り返していましたが、1998年の終わりごろからは、かゆみも強くなり、徐々に体調も悪化しました。そして1999年4月からまた入院することになりました。その時には尿の出が非常に悪くなっており、利尿剤を飲み始めたので、「とうとう来たか、自分もこれで終わりだな」と思いました。利尿剤を飲み始めた4月ごろは、なんとか尿が出たのですが、5月になると出なくなりました。
シャントを作ってからも、透析をせずに2年も腎臓がもった方というのは、なかなかいらっしゃらないと思います。
渡井先生:
普通は、半年以内には透析導入になると予測される時期に内シャントを作製します。
棚橋さん:
もったというか、もたせましたね(笑)。最初は5年くらいもたせようと思っていたのですよ(笑)。保存療法の時は、タンパク質を1日25g以下にしていました。おいしくない低タンパクのパンを取り寄せたり、製薬会社のレトルト食品を食べたりして、厳しい食事制限をしていましたね。それでも、なんとかもたせようと思ったのです。
奥様:
主人は透析導入をしたくない思いで必死だったのです。
棚橋さん:
透析治療が始まったのが1999年の5月31日でしたが、「俺の腎臓はよく42年間もったな」と思いましたね。透析導入になったその日は、事務所に行く途中で腎臓内科の外来のために病院に寄ったのですが、検査をしたところ、クレアチニン値が15mg/dlになっており、ただちに入院することになりました。パジャマも何もありませんでしたから、急いで妻を呼んで、買ってきてもらいました。
クレアチニン値15mg/dlというのは、とても高いですね。
後藤先生:
棚橋さんは体格もそこまで大きくないですし、つらかったと思います。