札幌北楡病院 レシピエントインタビュー第2回目は、2歳の時に二度の生体腎移植手術を受けられた本間実優ちゃん(仮名)です。
生後すぐに先天性ネフローゼ症候群と診断され、大変厳しい状況を乗り越え、2歳の時にお母様がドナーとなり1回目の移植手術を受けるまでのお話や、その後、伯母様がドナーとなり2回目の移植をされ、現在の元気を取り戻すまでのお話などをお聞きする事ができました。
実優ちゃんが移植を受けるまでの経緯
- 2006年 先天性ネフローゼ症候群と診断される
-
2007年(1歳) 腹膜透析導入
-
2008年12月(2歳) 生体腎移植手術(ドナー:母)血栓症により腎摘出
-
2009年2月(2歳) 生体腎移植手術(ドナー:伯母)
命をつなぐ日々
病状が出始める前はどのような生活でしたか。
お母様(ドナー):
出産は普通分娩でしたが、陣痛が弱く、羊水の異常などがあったようで、助産師にお腹を押されながらの出産でした。娘は元気に産まれ、特に異常は無く退院しました。ただ、自宅ではミルクの飲みが悪く少し心配していました。
移植手術を受けることになったきっかけを教えてください。
お母様:
生後20日で髄膜炎になり入院し、そこで先天性ネフローゼ症候群と診断され、その後、より大きい施設へということで札幌の病院へ転院しました。その病院の小児科の先生からは「成人の腎臓が移植できる体に成長するまで、年齢でいうと2 歳くらいになるまで生きることが出来、移植にこぎ着けられたなら、将来は普通の暮らしができるでしょう」と言われました。
移植手術ができるようになるまではどのような生活をされていたのですか。
お母様:
7カ月間は病院での生活で、生後2カ月の時、苫小牧から札幌に転院しました。感染に弱いということで隔離部屋に入り母子同伴で過ごしていました。ベッドの上の限られたスペースで、1日のほとんどの時間はミルクの持続注入を行っていました。慎重にしていても常に嘔吐があり、薬もよく飲み直しをしていました。腎臓から栄養分が外に出過ぎていて成長の妨げになるということで、生後7カ月で片腎摘出手術を行い、胃ろうをつくり、ようやく自宅での生活が出来るようになりました。
しかし、自宅に戻ってからは、体調の変化を見逃すことが重大なことにつながる恐れがあったため、朝晩の体重チェック、血圧と体温、水分のINOUTの管理を行い、とにかく慎重に、常に神経を張りつめて生活していました。熱を出すと尿路感染などを起こしやすい状態でした。夜は夜泣きと嘔吐を繰り返し、また、管を触らないように、外れてしまわないように監視する必要があったため、一時も離れることができない状況で、私はトイレも行けずに膀胱炎になったこともありました。透析装置の準備と後片付けも大変で、使用中のエラーのアラームで夜中に指示をもらうための電話を入れることもよくありました。在宅のリスクは多く、その状況をなんとか打破できる日をずっと願っていました。
移植手術に向けて
三浦先生と初めて移植について話したのはいつ頃ですか。
お母様:
娘が2歳になる年の4月に三浦先生が転勤して来られ、初めてお会いしました。小児の移植手術の状況やデータと安全性について細かい説明を受けたと思います。ドナーについての説明もありました。親だからといってドナーになることは強制ではないことや、献腎移植と登録についてのお話などをお聞きしました。家庭内の問題など、個人的なことにも考慮していただきながら話を進めてくださいました。
ドナーになる可能性があると知ったときはどのようなお気持ちでしたか。
お母様:
娘が先天性ネフローゼ症候群の診断を受けた時から、最終的に助かる方法は移植しかないということでしたので、ずっと、「自分の臓器で助けられるならば何でもする」という思いでいました。しかし、毎日の娘の看護、介護が大変でしたので、移植手術後も自分が健康でいられるのだろうか、という不安はありました。
移植手術が決まってから、実際の手術までの期間はどのくらいでしたか。その間どのように生活されていらっしゃいましたか。
お母様:
手術日が半年前に決まり、ドナーの検査は手術の2カ月前に受けました。提供するまでは健康に気を付け、元気でいなければと思いながら、看護、介護がハードな上に、生活は娘中心なので自分の衣食住が乱れてしまい、不安がありました。
更にその頃は家庭の問題も抱え、子供の病気と将来の不安で精神面はやり場がないくらい落ち込み、孤独でくじけそうな時もありました。当時はつらくてつらくて、精神的に限界までいっていましたが、訪問看護師さんやヘルパーさんの励ましがとても大きく、なんとか乗り切っていました。娘が元気な姿で暮らしているイメージを常に持って、気持ちを保ち続けるよう努力しました。