九州大学病院 レシピエントインタビュー第3回目は、約1年前に生体移植手術を受けられた、濱崎雄太郎くんです。
雄太郎くんは3歳の時に左の腎臓が委縮している事が判り、6歳の時に近い将来透析が必要になるだろうとの診断を受けたものの、ご家族や主治医の先生からのたくさんの愛情のもと、心も体もたくましく育ちました。雄太郎くんが12歳の時に移植手術を受けるまでのお話や、移植後、再び元気になって大好きな野球に一生懸命取り組んでいる様子を、ドナーとなられたお母様(文中:濱崎さん)と北田先生のお話を中心にお聞きしました。

雄太郎くんが移植を受けるまでの経緯

  • 1999年3月 元気に産まれる
  •       幼児期から腸重積を6回ほど繰り返す
  • 2002年 左腎委縮が判明
  • 2005年 将来透析が必要になる可能性が高いと診断される
  • 2011年2月 脱水症状を起こし年内に透析導入が必要になると診断される
  • 2011年3月 北田先生を紹介される
  • 2011年8月 生体腎移植手術

素晴らしい主治医との出会い

雄太郎くんが小さい頃の状況を聞かせてください。

濱崎さん
雄太郎は元気に産まれてきてくれたのですが、幼児期から小学校入学前までは、腸重積を6回ほど繰り返していました。いつも顔色が真っ青になり、病院に駆け込んでいました。

腎機能が悪化し始めたのはいつ頃からなのでしょうか?

濱崎さん
雄太郎が3歳の頃、高熱でかかりつけの医師を受診したところ、腎機能数値が高いということで、即、総合病院に入院し精密検査を受けました。その結果、左の腎臓が萎縮していると診断されました。特に治療法は無いと言われ、その後は定期的に検診を受けていました。

小さい頃

その後の病状はいかがでしたか?

濱崎さん
小学校に入学して間もない頃、定期検査の結果から近い将来、透析導入になる可能性が高いと診断されました。主治医にセカンドオピニオンを求め、他の病院の医師を紹介頂いたのですが、そこでも同じ診断を受けました。その診断を聞き、非常に落ち込んだ事を覚えています。
ただ、その日は別の病院から腎臓の専門医が来られていた為、たまたまその専門の先生にも診断を仰ぐことが出来ました。今思えばこの先生に出会えた事で、雄太郎の心を強く育てる事が出来たと言っても過言ではありません。
その先生は私達に「いつか人工透析になるのは間違いないだろう。近い将来かもしれないし、遠い将来かもしれない。しかし、それを恐れて今からこの子を甘やかして育てたらダメだ。いろんな事をさせなさい。スポーツもやっていい。腎臓病は運動をさせてはだめだと他の医師は言うだろうけど、好きな事を思う存分させなさい。
そして、いつか困難を迎える時がやってくるだろう。その時に、しっかりと困難を乗り越えることが出来る子供に育てなさい」と力強く言ってくださいました。
私達は、雄太郎が大好きな運動を控えさせようと考えていたので、その言葉を聞いて急に気持ちが明るくなったのを今でも忘れません。

その先生との出会いにより、雄太郎くんは大好きな運動もやりながら成長する事が出来たのですね。

濱崎さん
そうですね。その後は、総合病院で定期的な検診を受けながら、小学校時代は、水泳教室も最後のコースまでやり遂げましたし、運動会では紅白リレーの選手になる事もありました。
大好きな野球も小学校5年生から始め、中学校に入学してからは硬式クラブチームに入団し、移植手術寸前まで頑張ることが出来ました。